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このレシピは他と違って少し説明文が長くなってしまいます。また、説明の際に多少のネタバレがあるのでご注意ください。もしネタバレを嫌う場合は、説明なしで先に映画を観て、熟考し、答え合わせをする形で後で説明を見てください。もっとも、私が『答え』を知っているとは限りませんが。
説明なしで知識がない人がこれを観ても、この映画の価値を観ることはできない。いつもより長くなってしまうが、ここには短くまとめないといけないので、なるべく省略気味に説明する。
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ここ描かれるサブプライムローン問題を見てみよう。
といった負の連鎖のイメージだ。この流れを事前に見抜き、大損害を防いだばかりじゃなく、大利益を上げた数人の人々にスポットライトを当てている。
ドイツの思想家カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの若年期を描いている。産業革命により資本家の元、労働者たちは過酷な生活を強いられていた。プロレタリアート(労働者)とブルジョワジー(資産家)という二極化が当たり前となり、人間の平等性が失われたと思ったこの二人は意気投合する。そして、『共産主義』という思想を打ち出す。それがのちの『ソ連(共産主義)VSアメリカ(資本主義)』に繋がっていく。ゆえにマルクスは、『最も現実世界に影響を与えた哲学者』と言われている。
ちなみに宮崎駿やダライ・ラマ14世もマルクス主義だが、あくまでも『マルクス主義』であって、冷戦のように戦争に発展してでもそれを広めるべきだという過激な発想を持っているわけではない。『全員が平等であるべきだ、と想う心は素晴らしい』としているだけである。よって、ダライラマの映画『クンドゥン』で、このあたりのことについて触れるシーンがある。
1914年、第一次世界大戦がはじまると、オスマン帝国はドイツ率いる『三国同盟』と同盟を組む。するとイギリスは、オスマン帝国を解体させようと画策するようになる。この主人公であるイギリス情報将校T・E・ロレンスというのは、第一次世界大戦中にアラブ人がオスマン帝国へ反乱を起こしたときに派遣された人物。彼はアラブ人側についてオスマン帝国の内部解体に貢献したが、この問題が発生したことで、イギリスとアラブ人の板挟みとなってしまったのである。
スペイン人侵略直前のユカタン半島を舞台に、生贄にされそうになった捕虜の脱走と生き残りを掛けた逃走を描く。この生贄だが、当時のアステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。わかりやすく言うと『マヤ=ジャングル』『アステカ=平地』としてその育った文化は違い、これはマヤ文明の話だが、事実として当時のメソアメリカ文明の中に、『生贄』的な儀式が実在していたのである。この映画で描かれる太陽を軸にした怪しい宗教とその儀式は、実在した可能性が高い。
また、太字にしたところを最後まで覚えておくと分かりやすい。
16世紀のイギリスを舞台に、アン・ブーリンとその妹メアリー・ブーリンの姉妹を巡る歴史劇。ローマ法王から『カトリックの守護者』と称えられたヘンリー8世は、アン・ブーリンを愛するようになり、妻と離婚したかったが、カトリックでは離婚が認められなかった。そこでヘンリー8世は、ローマカトリックから分離し、『英国国教会(イギリス国教会)』を作ったのだ。それがその後の様々な問題や、戦争等にも影響してくる大問題となっていく。そしてのちに彼女は、『エリザベス』を産み、エリザベスは英国で最も知られる女王となっていった。
南北戦争でインディアンを迫害。無抵抗の人々を殺していく様子を見て『神』を見失う男を演じるトム・クルーズ。これはもちろんキリスト教の神となる。そのような人間の思想は、『儒教、仏教、神道、アニミズム、御霊信仰』といった様々な考え方が入り混じる日本のような場所と、相性が良かった。特定の神を外部に持ってそれにすべてを託して依存するのではなく、武士道精神のように、ただひたすら己と向き合い、律していく。これは、神なき世界で断固としてこの世界を生きるにはどうしたらいいかを彼に教える、精神的教科書のような意味合いも込められている。よって最後に彼は天皇に「死に様」を尋ねられるが、勝元の「生き様」を話した。
多くの人はこの映画を『夏の楽しいひと時、思い出のひと時』と解釈する。確かに邦題の『プールサイド・デイズ』だとそういう印象になる。だがこの映画の原題は『The way way back』。こういう言葉は存在しないので造語だ。Googleと同じである。これが『The way bak』なら『帰り道』となる。道(Way)が2つある。それが何を意味するだろうか。この映画で一番重要なところはここだ。帰り道。そこには2人の人間が肩を並べるシーンがあった。だから『Way』が2つなのだとしたら、これはこの主人公の少年だけの話ではない。とても深い、家族の絆の話なのである。
『フェンス』というのは作中では普通のあのフェンスのことだと説明があるだが、よくよく考えてタイトルと映画の内容を照らし合わせてみると、まさかそのフェンスのことではないと気が付くことになる。では一体どういう意味なのか。
このあたりが関係しているはずだ。普通フェンスがあればここで出た死神対策のように、例えば動物などの害から身を守ることができる。泥棒もそうだ。メキシコでは家の窓に鉄格子があるのが普通だが、フェンス(柵)は普通、ガードの役割を果たしてくれる。だが、今の鉄格子の話を聞いて、どこか心に排他的な閉塞感のようなものを覚えなかっただろうか。恐らく、それがもう一つのこの言葉の意味だ。彼はフェンスを作っている。どうして作っているのか。自分はそのつもりだろう。だが、実際にそのフェンスは、自分の人生に何をもたらしたのだろうか。
聖杯と漁夫王(フィッシャー・キング)の伝説について出てくるが、漁夫王(いさなとりのおう、フィッシャーキング)は、アーサー王物語に登場するカーボネック城の主。本名はペラム王で、またロンギヌスの槍によって癒えない負傷を得たことから、不具の王(Wounded King)などとも呼ばれる。王が病むことにより王国も同様に病み、肥沃な国土は荒野へと変わってしまう。王の病を癒すために勇者たちが「聖杯」を探しに赴き、そのうちの一人が聖杯を探し当て王と王国を癒すことに成功する。
最高のSF映画として全世界で高く評価されており、日本の旧文部省が「特選」に指定した唯一のSF映画でもあるこの作品。原作者のアーサー・C・クラークは、1998年エリザベス2世女王よりナイトの称号を授与され、入会条件を上位2%のIQを有する者に限定した国際的な団体『メンサ』の会員でもあった。
この映画は、実存主義、人類の進化、科学技術、人工知能、地球外生命体の可能性などをテーマに、異星人のモノリスを発見した後、感覚を持つコンピューターHALと共に木星に向かう航海を描いた作品。クラークの小説『2001年 宇宙の旅』では結末は『モノリスから、人間を含む多くの種族が誕生したのだ』となっている。
これはつまり、「究極に進化した地球外生命体の“遺物”であるモノリスにより、人間は太古の昔より進化をしてきたが、今度は人間が(ボーマン船長が)肉体を離れて精神のみの生命体へとさらなる進化をする。宇宙にいる多くの種族がそうして進化をしてきたように、人類もようやくその仲間入りをし、宇宙の一部になったのだ。それが地球外生命体の目的だった。」という結末であり、それを「宇宙空間に胎児の姿で浮遊する」というビジュアルで表現したものであった。「言葉で説明をしてしまうと、せっかくの未知の世界との遭遇が、陳腐なものになってしまうから」とキューブリックは判断したという。
キューブリックとクラークは制作にあたり静かな衝突をし、続編の『2010年宇宙の旅』の映画化に際してキューブリック抜きを条件にし、クラークは映画の仕上がりに満足したという。この作品も好評だったが、『2001年』の芸術性には達していなかった。ゆえに、こんな優秀なクラークに脅威だと思われ、自身の思い描いた脚本を貫いたキューブリックは、人として、クリエーターとして、極めて異彩を放っている。
有機水銀分解菌。この発見がこの物語の根幹にある。イタイイタイ病、四日市ぜんそくの原因である環境汚染の『後始末』をしていたのは、この生命体だった。これが『腐海』のモデルとなった。地球のリーダーぶって偉そうにしている人間が、植物や菌に助けられている。なんと無様で愚かなことか。まず我々はこの映画の根幹を覗き、そういうテーマを突きつけられる。
1970年、『人類の進歩と成長』を謳った大阪で行われた日本万国博覧会、この一大イベントを成功させた日本は、経済大国への道をひた走る。1972年には『日本列島改造論』が発表され、更なる改造、開発が推進された。やがて『Japan as No.1』と称されるほど、経済は強くなっていった。一方、70年代はまた、『公害・環境問題』が沸点を超え、爆発した年代でもあった。
これまで、開発と呼ばれ、進歩だと思われていたものが、実は、破壊であったことが、次々と明らかになったのだ。(イタイイタイ病、四日市ぜんそく等の発覚)この時代、宇宙から地球を観た映像が、人々の意識を変えた。地球は『全体で一つの命』の様に見えた。『風の谷のナウシカ』には有毒なガスを発する菌類の森、『腐海』と呼ばれる森に地球が覆われている様が、描かれている。そこには、『人間は地球の加害者だ』という宮崎駿の思いが反映されていた。
この話は奥が深い。多くの人がこのテーマに気付かずこの映画を『観た』と思っている。このことについてどう思うか、その答えでその人の人生は決まる。もちろん、あるシーンではスタジオジブリは『子供たちが喜んでくれて、嬉しいです。それだけで十分。』と言うだろう。だがあるシーンで宮崎駿はこう発言している。
『この一本で世の中を変えようと思ってやんなきゃいけないんだから。変わりゃしないんだけど。変わらないけど、そう思ってやるのがね、映画を作るってことだから。』
このモノリスは大きな石板のような石柱で、この物体が『人間を含めた様々な生命体を生み出し、進化させてきた』ということで、『神』のような役割を果たしています。神の場合は宇宙創造にも関与する規模の存在ですが、モノリスはもっと狭い範囲なのが特徴です。宇宙を創ったり、惑星を作ったりということはしませんからね。モノリスそれ自体に意志は無く、いわば極めて高度なコンピュータと考えられます。
この話を更に広げる場合は『ゼノブレイド』というゲームをやるといいでしょう。これは『裏FF7』と言われている専門性の高いゲームで、世界的に異常な人気のある『FF7』と同時代に考案されるも、難しすぎてスクエニから出すことを許可されなかったゲームです。のちに、新会社『モノリスソフト』から発売されるわけですが、会社名、ゲームの根幹にある要素、それらのすべてが今回の話と関連性があるように見えます。
多くの人が真のテーマにたどり着けず、間違った評価をしてしまっている映画をピックアップ。
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Wikipediaさえ見ればこう書いてあるのが見ることができる。バベルは『旧約聖書』創世記第11章にある町の名。町の人々は天まで届くバベルの塔を建てようとしたが神はそれを快く思わず、人々に別々の言葉を話させるようにした。その結果人々は統制がとれずばらばらになり、全世界に散っていった。この故事を背景に、「言葉が通じない」「心が通じない」世界における人間を描く。
・・これさえ押さえておけば間違った解釈にはつながらないが、そこまでしない人が多く、その人たちがヤフー映画などに的外れの感想を書いてしまっていて、★の数で映画の価値を曲解してしまっている。
両親を殺した罪で服役し、少年院から出所したばかりの少年と、彼を監視する刑事、少年に興味を抱いた少女の3人が織り成す緊迫した関係を描いている。・・とWikipediaに説明があるし、邦題もまるでラッセルクロウが主演とでもいうかのように『追跡』が本題であるかのようにしてある。だが、よく観ればわかるように、どう考えてもこの映画の主人公は『彼女』である。この映画は、彼女が自分の下着姿で自慰行為をする大人と向き合うところから始まる。そして最後は、川に死体を流す青年の姿が映る。
彼女の取った行動の正当化ではない。だが、彼女の心境を理解できない人は、あまり『人生』全体を語る資格はないかもしれない。人間が生きる大海とは、陽の光が差し、子供たちの笑い声が聞こえる浅瀬だけではない。深い、深い、海の底もまた、大海の一部なのだ。
真理から逸れるほど虚無に近づく。これは、今ぱっと見てスルーして、明日にはもう忘れてしまっていいような、浅はかな話ではない。よってリンクを張っておいたので、そこで徹底的に説明をする。あまりにも深すぎる内容なので、この映画の制作者は恐らくここまで考えていないだろう。だが、稀にこういうことが起こる。制作者の意図を越えて奇跡を起こす映画がある。
『青春映画の域を出ない』と過小評価している人を見たが見当違いである。孔子は言った。『国を安定させる為には3つの条件がある。』
の3つだ。そして、この中でまず最初に犠牲にするとしたら、 迷わず『軍備』と言ったという。当然だ。戦争など必要ない。だが、『ある』ではないか。日本人の脳裏によぎるのは『憲法9条』と『自衛隊』の存在だ。このことについて考えた上で、もう一度この映画と向き合いたい。
この話も奥が深すぎる。内観と『思い出のマーニー』にすべてをまとめている。ちなみに、私と一緒に内観を体験した少年は、『信じなくてもいいんですけど、僕は内観で死んだお父さんに会いました』と言った。生涯無宗教を誓っている私がオカルト的なことを信じることなどありえない。だが、私には彼が言いたいことの意味がわかった。
宣伝のせいでもある。例えばネット広告でも、バナーの画像や特定のテキストを目的にクリックしてページに飛び、『それ』がそのページになければ詐欺に近いガッカリ感を味わう。この映画もそうして多くの人を映画館に集めた。だが、そうでもしないとこの手の映画で人を集められないと分かっていたか、あるいは映画に詳しいスタッフが裏にいたのだ。この映画の鍵は、『あの村がある理由』である。
また、それだけではない。この映画には老子の言った『小国寡民(しょうこくかみん)』(住民が少ない小さな国。国が乱れることなく治まる小国寡民が自然な姿だと老子は言った)という考え方を観ることができる。老子や韓非子が言ったように、人は穏やかな小国寡民から離れれば離れるほど、秩序を保つのが難しくなり、混沌に近づく。しかしもう我々は、自分たちの意識無意識に関係なく、小国寡民で生きていく選択肢をやめたわけだ。そのあたりの是非についても考えることができる映画なのである。
例えば『ヴィレッジ』では『評価している人はどうかしている』とか『シャラマンのスランプ』などと感想があります。映画感想サイトに感想を書く人の意見を見ると、匿名ということもあって、ほとんど的外れで無責任な意見ばかりで、映画を愛する者からすれば残念の一言。では、こういう人が映画を観るべきではないかというと、そんなことはありません。映画は売り上げが上がらないと次につながりませんからね。難しいテーマを描けば、それだけ内容に追い付かない人が出てくるのは当然の現象です。『そういう人も映画を観た』時点で、制作者側の戦略勝ちとなります。
私は先ほど無宗教だと言いましたが、それは両親がクリスチャンだったからです。そして、洗脳に近い強要を受けて育ちました。私は死を願いましたよ。この家にいる以上、私の思想を無視してクリスチャンにさせようとし、それを拒むなら『反抗』や『甘え』と言われる。自分がこんなに嫌だ、嫌だと言っているのに、それを無視して押し付けることをいつまでもやめず、家ではいつでも肩身が狭い思いをしてきました。彼らが死ねば私は楽になれると思いましたよ。
しかし、大人になって彼らの立場を理解するようになり、『彼ら側の心境』も想像するようになりました。彼らはただ、自分たちが本当に善いと思った世界を、愛する子供たちにも教えたかっただけなのです。自分たちが信じる世界観、それは自分たちが生きる『空間』とも言えます。その中にいると安全ですが、外に出ると危険である。両親は、そう信じていました。これは、この映画の根幹にあるテーマと同じことですよね。
ある海外の家庭で、似たようなことがありました。『外は危険だから』として、子供たちを外界から遮断し、そこで何十年も生活させたのです。子供たちは学校に行かなかったので、発見されたとき、読み書きもできませんでした。しかし、事件が発覚してからも、子供たちはそんな親を責めることはありませんでした。『だけど、僕たちを愛してくれたから』と言って、許したのです。この映画の奥行きの深さ、価値を理解できない人ももちろん『人生の一部』を生きていますが、あまり『人生』そのものを語る資格はないかもしれません。人間が生きる大海とは、陽の光が差し、子供たちの笑い声が聞こえる浅瀬だけではない。深い、深い、海の底もまた、大海の一部なのです。そして、そのような深海を体験するすべての人が、屈強な精神を持ち合わせているとは限らないのです。
ケビン・コスナーは、山あり谷ありの映画スター人生について聞かれたとき、こう答えました。『わたしは、人生を生きている』。
『ヴィレッジ』の説明で追い付いていない人がいるならここからは大変だ。人間が生きる大海とは、陽の光が差し、子供たちの笑い声が聞こえる浅瀬だけではない。深い、深い、海の底もまた、大海の一部なのだ。
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元国連職員マイケル・スーサンが自身の体験をもとに執筆した小説の映画化で、国連史上最悪の政治スキャンダルとされる、困窮するイラク国民を救うはずの夢の人道支援プログラム「石油食料交換プログラム」の裏で行われていた不正を描いた作品。実にプログラムの資金に関する18億ドル(約2000億円)を超える汚職が明らかになった。
この話はもちろん認めることができない悪質な詐欺まがいの犯罪だ。だが、それを大前提にして考えた時、『エネルギーの塊』という一つのキーワードが思いついた人は識者である。
前述したように、この映画はあまりにも深く、深すぎるゆえに『よく見えない』。よって、浅瀬から覗いて一応見える景色がこの映画の全容だと思わない方がいい。深海も含めて、『海』なのだから。
いい映画、深い映画は必ずしも評価されているわけではない。ゴッホの絵が死後に数十億円の価値がついているのは滑稽でしかない。『トトロ』も赤字だったし『キングオブコメディ』は興行的に失敗している。さて、あなたの目はもう肥えてきたはずだ。その目でこの映画を観て、どう思うだろうか。彼は不器用で、滑稽で、精神病院に入院すべき社会不適合で、唾棄すべき愚かな人間だろうか。そうじゃないなら、どういう人間だろうか。
中世ヨーロッパの1000年間の暗黒時代というのは、すべては神の為にあった1000年間だった。しかし、600年頃からイスラム教が登場し、1095年にはエルサレムを奪回しようとキリスト教が『十字軍の遠征』を始める。しかし十字軍はイスラム軍に敗北。そしてキリスト教の権威が衰退していく。『神の国⇒人の国』へと移り変わっていくようになり、『ルネサンス時代』へ突入するのだ。
腐敗と停滞の原因とも言えたキリスト教が衰退していくことで、新たな動きが見られるようになった。ラファエロ、レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロ。彼らのような偉大な芸術家が出てくるのもこの時代である。更なる詳細はこの記事にまとめている。
さて、この映画では最後に『古い因習からの解放』という状況が描かれ、殺伐かつ鬱屈とした状況は一変し、皆の心が晴れやかに解放されているのが分かる。神父がこう言う。『神の神性について語るよりも人間性について語りたい。人間の価値とは何を禁じるかで決まらない。何を否定し、抵抗し排除するでもない。むしろ何を受け入れるかで決まるのでは?』
この映画は、宗教の話である。ルネサンスの話であり、人が生きるべき道を教える啓蒙の話であり、とても興味深い映画だ。だが、表層はチョコレート屋の話だ。
アメリカが誇る精鋭特殊部隊ネイビー・シールズによるアフガニスタンにおけるターリバーン指導者暗殺作戦中に起きた、ネイビー・シールズ史上最大の悲劇といわれるレッド・ウィング作戦が描かれる。ハーバード大学の歴史上もっとも人気の履修者数を誇る講義をするマイケル・サンデルの著書、『これからの「正義」の話をしよう』にはこうある。
2005年6月、アフガニスタンでのこと。マーカス・ラトレル二等兵は、ネイビーシールズ(米海軍特殊部隊)のほかのメンバー3人とともに、パキスタン国境の近くから秘密の偵察に出発した。任務はオサマ・ビン・ラディンと親交の深いあるタリバン指導者の捜索だった。情報によれば、目標とする人物は140ないし、150人の重武装した兵士を率いており、近寄ることの困難な山岳地帯の村にいるとのことだった。
特殊部隊が見下ろす山の屋根に陣取ってまもなく、100頭ほどのヤギを連れた2人のアフガニスタン人農夫と14歳くらいの少年に出くわした。武器は持っていない様だった。米兵たちは彼らにライフルを向け、身振りで地面に座るよう命じ、どうすべきか話し合った。このヤギ飼いたちは非武装の民間人らしい。とはいえ、もし解放すれば米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった。
どんな方策があるかを考えながら、4人の兵士はふとロープを持っていないことに気付いた。その為男たちを縛り上げ、新たな隠れ家を見つけるまでの時間を稼ぐことは出来なかった。選択肢は、男たちを殺すか、解放するかのどちらかしかなかった。(中略)兵士たちのジレンマを難しくした要因の一部は、アフガン人を解放したらどうなるか、はっきりしないことにあった。彼らはそのままヤギを追っていくだけか、それともタリバンに知らせるか、その点が不明だったのだ。
だがラトレルが、ヤギ飼いを解放すれば悲惨な戦闘を招くことになり、結果として19人もの戦友が命を落とし、自分も負傷し、任務は失敗すると知っていたらどうだろうか。ラトレルは違う決定を下していただろうか。
この映画では謎解き要素も含まれているのであまり詳細は書けないが、注目すべきポイントが3つある。1つ目は主人公の彼の心情である。彼の気持ちを本当に想像できたかどうか、自問するといい。2つ目は、彼の面倒を見る医師である。『まるでカセットテープがA面からB面に切り替えられるように、永遠に同じことを繰り返す』という言葉の重みを理解できるのは、教育の神、森信三の『教育とは流れる水の上に文字を書くような儚いものだ。だが、それを岩壁に刻み込むような真剣さで取り組まなくてはいけない。』という言葉と真正面から向き合い、それを当然のこととして常人離れした根気強さでそれと向き合った人だけだ。
そして3つ目は、彼が最後に言うセリフである。このセリフを聞き逃せば、この映画の評価を思いっきり間違えてしまうことになる。
『青い珊瑚礁』(1980年)の続編。これはここには書ききれないので感想文で詳細を見てもらった方がいい。簡潔に言うと、かつて孔子が『そもそも為政者は必要ない』として、一人一人の主体性を訴えた。だが、韓非子は異を唱えた。人間は孔子の言うような高潔な存在ではない。『利己』に走り、損をすることを回避しようとする。それが人間の本性というものである。従って、法律によって刑罰を整えれば、人はそれを回避しようとして、犯罪を予防できる。法さえ完備していれば、国の秩序は保たれるとして、法の重要性を説いたのだ。
更に老子は『小国寡民』という考え方を主張した。『小国寡民』とは、『小さい世界なら平和になるよ』ということ。『ブルーラグーン』のこの島で過ごす平和な日々は、『小国寡民』の恩恵そのものである。だが、そこに治安を乱す外部の者がやってくるわけだ。そして、化粧などという『本来別になくてもいいもの』も、異性の気を引くという、ある種の自分本位な発想から誕生してしまうことになる。これは『ヴィレッジ』同様に、人間の在るべき姿を考えさせられる話だ。
修道院に入りカトリックの教えに従い良き尼僧であろうとするものの、心の葛藤が捨てきれず還俗するまでの17年間の尼僧の物語を描く。実在のマリー=ルイーズ・アベ(シスター・ルーク)がモデルになる。世の人が、『お坊さんじゃないんだから』とか、『修行僧やん』と、軽々しく口にすることがあるだろう。私はそういう時、彼らとは完全に違う温度で、『そりゃそうだろ、その通りだよ』と断言するような人間である。その『温度差』を覚えてしまうような人は、この映画の価値を見抜くことはできない。なに、10代の頃は私もそうだった。伸びしろを埋めるのは楽しい作業だ。
世界のホームラン王、『王貞治』の特集で、全く打つことができなかった新人時代から、想像を絶するほどの努力を重ねて、偉業を達成するまでになった経緯を見た。王をコーチした荒川氏は言う。『みんな王の半分も努力できないでしょ。それくらい王は努力したと思います。』そして、その当時の監督でもあった、バッティングの神様といわれた川上哲司監督も、『俺は王ほど努力できないな。』と言ったという。それで言うならこうだ。『彼女ほど自分に厳しい人を見ることは、人生においてほとんどないと言っていい』。
391年のエジプトアレクサンドリア。キリストが亡くなってからおよそ400年後のことだ。ヒュパティアという女性の天文学者がいた。彼女はガリレオやコペルニクス同様、天動説に疑問を感じ、地動説に焦点を当てて真実を見極めようとしていた。だが、時代がまずかった。時のローマ皇帝テオドシウス1世は、キリスト教徒以外の人間を迫害し、ローマ帝国においてキリスト教の地位を絶対的なものにしようと画策。
ローマ帝国に軸を置いて考えると、キリスト教というのは『救世主』だった。だが、それ以外の人々、つまり『クリスチャンではない人』、『それを強要される人』からすればこんなにもひどい扱いは無かった。私はとてもよく似た境遇で生きたから本当に気持ちがよくわかる。私も両親がクリスチャンであり、それに従えない場合は家から出ていかなければならないという強迫じみた迫害を受け、育った。
しかし、ヒュパティアのような人間にしか見えない真実がある。彼女がどうなったかは映画で観たい。一つ言えるのは、彼女が死んでから800年経ってから、彼女が見抜いたことが真実であったことが証明されたということだ。
この映画をおすすめした人が感想で『でも、暴力はだめでしょ』という類の結論を言ったが、私が『じゃあ戦場にいて、隣の仲間が撃たれた時、自分が相手を撃たないと次こそ仲間が死ぬ、あるいは自分が死ぬという時も、同じことが言える?』と言うと、『たしかに・・』と言葉を詰まらせていた。暴力がいけないことは誰でも分かることだ。殺人などもってのほかだ。だからそう簡単に殺人は起こらない。皆がその考え方に賛同しているし、その罪の重みを理解しているからだ。
では、彼女のような状況に陥ったとき、あなたは同じことが言えるだろうか。この映画のキャッチコピーは『あなたはジョディフォスターを許せるか?』。それにもかかわらず、即答で『いや、許せないでしょ』と安易に発言する人は、あまりこの映画を観たとは言わない方がいいかもしれない。あなたは映画だけではなく、言葉の意味すらも熟考できない人間だということが露呈し、恥をかくだけだ。即答できるような言葉をわざわざ打ち出すわけがないだろう。『即答できない複雑な話だからこそこの言葉を投げかけている』に決まっているのである。
この流れで考えると、この映画も併せて複雑な話である。一体彼女はどこにいけば幸せになるのだろうかという話を突きつけられることになる。上記作品で上がってくるのも法律的な話だが、今回の場合も、法律を順守しようとする人間の頑なな意思によって、彼女はあそこに落ち着いたわけだ。だが、最後のシーンを観て、何を想うだろうか。
通常10%までしか活用できない人間の脳の潜在能力を極限まで高めることができる麻薬を体内に入れられ、覚醒してしまった女性が描かれる。これは90分しかなく、入り口が低俗に見えることから評価を低くする人がいるかもしれないが、『そうでもしないとこういう状況にはならない』という裏設定が存在している。もちろん、エロや暴力といった映画に求められるエンタメ性を盛り込む意図もあるだろう。
『1+1=2ではない。』
最初にこの映画を観た時は、引っかかるだけでこの言葉の意味まで理解できなかった。数年後、この世にある名言、偉人の考え方、哲学、宗教、神話等について学んだ後にもう一度この映画を観たら、かつて意味が分からなかった彼女のセリフの意味が理解できるようになっていた。ヒントはニーチェの言葉にあったのだ。
『論理は完全な虚構の見本である。現実の中には論理などは存在せず、現実はまったく別の複雑極まりないものである。我々は実際の出来事を思考においていわば簡略化装置で濾過するように、この虚構を図式化することによって記号化し、論理的プロセスとして伝達および認識可能なものとする。』そして手塚治虫はこうだ。『円周率とか1、2、3、というのは、地球だけの真理であって、宇宙にはそれとは違う、まるっきり想像を絶した、知識の体系があるかもしれない。』更なる詳細は感想文に書いた。
私はこの作品があまりにも教訓性が高かったので、この後に口論した母親と二人で、もう一度この映画を観た。『一緒に観て考えよう。あなたはこの彼女と同じ行動を取っている。客観視するんだ。』私は母にそう言って、一緒に観た。すると母親は、『確かに私はこういうところがあるかもしれない』と言った。彼女は犯罪者ではない。生きて呼吸もできている。
だがオスカーワイルドが『生活するとは、この世でいちばん稀(まれ)なことだ。たいていの人は、ただ存在しているだけである。』と言い、ルソーも『生きるとは呼吸することではない。行動することだ。』と言ったように、この世界にただ存在しているだけでは、『生きている』と断言することはできない。
この映画の感想に、きれいごとではない戦争の惨劇について書かれているものがあったり、あるいは強姦、処女検査などの描写をカットしなければならないなどの問題をピックアップしているものがあるが、この映画の肝は残念ながらそんなところではない。これは、『宗教』の話である。私は兼ねてから彼女(ジャンヌ・ダルク)が一体どういう人物なのかが気になっていた。もちろんこれは映画だが、『神のお告げ』を聞いたフランスの英雄ジャンヌ・ダルクが本当に見たものは、一体何だったと思うだろうか。
これは、この世を生きるすべての宗教を信じる者が観るべき映画だが、そのほとんどの人がその問題のシーンを見て見ぬふりするだろう。終盤で牢屋にいる彼女が語り掛けられる内容はあまりにも深く核心を突いていて、だからこそ人間の自己防衛本能を煽ってしまうからだ。
この映画は『常識』に囚われている人間には理解できない。そういう人は、『え?いやいやいや、妻と子供を置いてそんな行動に出るなんてどう考えたっておかしいでしょ。残された人の気持ちを考えてよ』ということを言うだろう。だが、人生を熟考しなければならない。46億年だがそれくらい前に地球が誕生して、地球に生命が存在してからまだ40億年程度。人間が登場してからはどうだ。大した時間は経っていない。この後は?未来永劫人類は生き続ける?地球は?いつか消滅しないのか?タイムマシーンが発明されるならなぜ現代にその片鱗がない。
何がどうなるかは知らないが、もし、この人生が『恐竜と同じような運命』だったとしたらどうだろうか。いつか間違いなく生きていた。だが、いつか間違いなく絶滅する。そういう生命の運命を、その他の生命と等しく背負っている、ただの生命体の一つだったとしたらどうだろうか。交尾の後に相手を殺す昆虫は?子を産んですぐに死ぬ動物は?他の生命にとって毒となる物質を分泌する植物は?我々人間の倫理や道徳は、この宇宙の規模で考えた時、どれくらい重要?それくらい俯瞰的にこの映画を観なければならない。
『阿部定事件』というものがあった。阿部定事件(あべさだじけん)とは、仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件。定は逮捕されると「私は彼を非常に愛していたので、彼の全てが欲しかった。私達は正式な夫婦ではなかったので、石田は他の女性から抱きしめられることもできた。私は彼を殺せば他のどんな女性も二度と彼に決して触ることができないと思い、彼を殺した…」なぜ石田の性器を切断したかは「私は彼の頭か体と一緒にいたかった。いつも彼の側にいるためにそれを持っていきたかった」と供述したという。
この話の不思議なところは、この事件の後、阿部定に全国の女性から、『あなたの気持ち、わかります。』とファンレターが届いたというのだ。こういうことが世の中に存在するのである。
これも説明が長くなるから感想文に託すとして、ここでは簡潔に。言っておくが、派手なこのアクションが云々というところに目がいって終わっている人は、もちろんこの映画の根幹にあるテーマを見抜けていないことになる。映画は第三次世界大戦後に出現した全体主義体制の都市国家で、ある党が独裁政党として君臨し、二度と戦争が起らないように感情を持つことを禁じられた社会となる。人間を強力な『外圧』で統制していくことで世界平和をもたらす。それが人間として本当に正しい姿なのか、そして違うのであれば、どうすればいいのか。おそらく、遠い未来でこの筋書きについて熟考しなければならない時が来るだろう。
人間全員が自主的に『熟考する人』になるのはほぼ不可能である。周りを見渡してもそんな人は1割いるかどうかだ。ほとんどすべての人が『認知の歪み』という言葉の意味すら理解しないで生きている。では逆に、この世界を『圧倒的な外圧で支配する』のはどうだろうか。この世界において、キュロス、アレキサンダー、カエサル、チンギス・ハン、織田信長、フェリペ2世、ナポレオン、ヒトラーといった何人もの帝国の支配者たちがやろうとしてきたように、この世界を外圧で支配するのだ。 そのイメージを教えてくれるのが『リベリオン』なのである。
キーワードは前述した『老子、孔子、韓非子』といった識者がその目で見ていた、この世界の光景である。
一見すると、医療技師が宇宙空間での船外活動(宇宙遊泳)を行い、事故にあって仲間を失うも、何とか自分だけは助かることができて、地球に戻ってくるという話だ。Wikipediaの説明にも、『地球の重力(Gravity)を存分に感じながら立ち上がるところで物語は終わる』と締めくくられている。だが、よく話を聞いていれば分かるように、彼女は事故で娘を亡くしていて、心にある種の穴を空けた状態で人生を生きている。では、もし彼女の家族が地球にまだ存命であればどうだろうか。彼女の宇宙での立ち回りは、どのようなものになっているだろうか。
ここで考えるのは『ガタカ』という映画である。2011年、NASAにより「現実的なSF映画」1位に選ばれた映画であり、非常に教訓性が高い作品だ。この映画の最後の方で、『生まれつき心臓が弱く30歳までの寿命と宣告されている』イーサンが海で泳ぎながら『戻ることは考えずに、全力で泳いだ』と言うシーンがある。ここにこの映画の深層メッセージの全てが詰まってる。表層は、宇宙に行きたい男の話だ。
人間の生きるエネルギーは、モチベーションと連動している。彼女は途中、生きることを諦めた。それは地球に戻っても、そこに娘はいない哀しい現実が待っているだけだからだ。だが、マットという粋な男が『こう言うであろうセリフ』によって彼女は背中を押され、彼のためにも、そして娘のためにも、生きることを決意したのだ。その強いモチベーションが行動へ繋がり、彼女は地球に帰るために取るべき手段を取ることができた。そして、地球の重力(Gravity)を存分に感じながら立ち上がるだけではない。彼女が最後、『亡くなった大切な人の分まで、この地球でもう一度生きていくんだ』という決意が込められた一歩と共に、壮大な音楽が鳴り、映画は終わる。
『心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。』
知性を探究すると、いつかこの考え方にたどり着く。ある有名な男性経営者は『賢い女性たちって、田舎に行っちゃうよね』と言ったが、ニーチェがキリスト教で人間の潜在能力が埋没することを危惧し、老子が『小国寡民』を理想郷とし、孔子が法律に依存する社会を認めなかったように、この人生を主体的かつ個性的に生きようと思えば、よく厳選し、吟味された無駄のない生活を生きるべきだという答えが見えてくるのである。
アインシュタインはユダヤ人『ではなかった』から、葬式では踊りも歌もなく、牧師もおらず、人数もわずか12人だった。そして遺灰は近くのデラウェア川に流した。もしあなたが無宗教なのであれば、冠婚葬祭で行われる常識的儀式に、疑問を覚えたことはないだろうか。確かに隙はあり、未熟で、課題も残っている。だが、この映画で彼らが生きようとした人生は、真理の後光が差しているように見える。自分の遺灰を『あの場所』に流してもいいと思えるほど、考えを突き詰められるかどうかが、この映画を理解するための鍵になる。往々にして、海や、山や、きれいな場所に散骨したいのではないだろうか。
この話で極めて重要なシーンとは、モーセが海を割ったことでも、様々な怪奇現象が起きたことでもない。私は最初から何かを盲信することなどないので、この話がすべて史実通りだとかそういう発想をすることはない。したがって、この映画も含めたすべての歴史映画に対して『史実云々』という批判をする人間のような『側』にいる人達と私の間には大きな溝がある。
そんな些末なことはどうでもいい。この映画で最も重要なのは、『神』と名乗る子供が、『私は、ある』という発言をしたことである。更なる詳細は、この記事にて確認したい。難易度は、『超』がつくレベルとなっている。言っておくが、私は生涯無宗教を誓う人間であり、偏った思想は一生持たないと決めている。持たないと決めたからこそ、この話が見えてきたのだ。つまり、アブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)の教え云々という『表層』の話は私には無縁なのだ。私が観ているのは、『それが生まれた起因』であり、『そうさせた存在』そのものである。
もちろん私はこのセリフが『この映画オリジナルのもの』と誤解などしていない。これは当然『聖書』の言葉を引用している。
この話を理解できる人間が一体この世に何人いるだろうか。時間や宇宙といった理論物理的な話のことではない。相対性理論云々とか、ブラックホール云々といった話は専門家ならわかるだろう。だが、最も重要なのは『なぜあの時マーフは車を引き返したか』ということだ。全てはこの記事に書いた。
あまりに深い話が続いたのでここは簡潔にしておきましょう。ただ、人間というものは『たまたま自分が知っている情報』と目の前にあるものに、何かしらの関連性があるように思い込もうとするところがありますからね。そういう確証バイアス(自分の考えは正しいのだ、と思いたい思い込み)に支配された正当化がないようにしたいですね。
先ほどから出ているこの記事だが、これを観なければこれらの映画は理解できない。
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『真理(愛・神)から逸れれば逸れるほど虚無に近づく』。先ほどの記事で説いているこのテーマを軸に考えた場合、この映画はどう映るだろうか。
そしてこの場合は、最初はどんどん虚無に近づき負の連鎖に陥るが、そのうち二人が真理に沿った行動を取り始め、事態が好転していくことがわかる。
とくに『チェンジングレーン』は時間も90分程度ですし、非常に分かりやすい教訓映画となっています。私が長々と記事で説明した論理を見るよりも、はるかにわかりゃすいイソップ物語のような教訓と簡潔さを兼ね備えた物語になっています。この事実を人間全員が理解したなら世界平和は訪れるのですが、真理というものは目に見えず、しかも六法全書の1兆倍以上のボリュームで細かく複雑に存在していますから、子供もいますし、それが達成されることはなく、結果、世界平和というのは永遠に訪れないという結論に至ります。
しかし、たとえそのすべてを頭で論理的に理解しなくても、人間はなぜか『真理から逸れると虚無を覚え、近づくと心が温かくなる』という、ある種のセンサーのようなものを持っています。そのあたりをうまく使えばぐっと平和に近づけるのですが、うーむ!
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