MOVIE RECIPE
MOVIE RECIPEトップページはこちら。
『MOVIE RECIPE』-映画がより楽しくなる魔法のレシピ-
- レシピ数:5
- 紹介映画:52
当記事は半分まで無料で閲覧可能です。また、下記『MOVIE RECIPE1:冒険者たち』が全て無料で閲覧できるようになっていますので、参考までに。
1.『イスラムと西アジア』
ムハンマドが610年にイスラム教を開き、そこから彼の生まれたアラビアのある西アジアを中心としてイスラム世界が広がっていく。
今回配合するレシピはこちらです!
- 『ザ・メッセージ』
- 『アラジン』
- 『キングダム・オブ・ヘブン』
- 『奇蹟がくれた数式』
- 『アラビアの女王』
- 『アラビアのロレンス』
- 『インドへの道』
- 『ディバイナー 戦禍に光を求めて』
- 『ガンジー』
- 『マザー・テレサ』
- 『アルゴ』
- 『パラダイス・ナウ』
- 『ワールド・オブ・ライズ』
- 『華氏911』
- 『グリーン・ゾーン』
- 『ハート・ロッカー』
- 『ホテル・ムンバイ』
- 『キャプテン・フィリップス』
- 『きっとうまくいく』
800年頃。この『アラジンと魔法のランプ』を含めた『アラビアン・ナイト』という物語集の舞台は、『アル・マンスル』や『ハールーン・アル・ラシード』という人物が治めたイスラム世界である。宗教色を一切出さずに観ることができるこの作品は、全世界の人々が安心して純粋さに浸ることができる。
1200年頃。1000年以上続くパレスチナ問題の最盛期とも言える、十字軍の英雄ボードゥワン4世と、イスラムの英雄サラディンがいた時代。『あなたにとってエルサレムとは何ですか?』という問いに対し、『無だ。だが、すべてだ。』というセリフは、あまりにも重い。
1914年頃のシュリニヴァーサ・ラマヌジャン。それは、インドの天才数学者で、数学を知る人ならだれもが知る人物である。あの核廃絶に対する共通の想いから親交のあったあのアインシュタインと「ラッセル=アインシュタイン宣言」を打ち出したバートランド・ラッセルも登場する、貴重な作品だ。
1914年、第一次世界大戦がはじまると、オスマン帝国はドイツ率いる『三国同盟』と同盟を組む。するとイギリスは、オスマン帝国を解体させようと画策するようになる。この主人公であるイギリス情報将校T・E・ロレンスというのは、第一次世界大戦中にアラブ人がオスマン帝国へ反乱を起こしたときに派遣された人物。
20世紀初頭、イラクとヨルダン両国の国境線を引いてイラク建国の立役者となり、“砂漠の女王”と呼ばれたイギリス人女性ガートルード・ベルの生涯を描いている。上記作品の『アラビアのロレンス』も登場する。
第一次大戦後の英国の植民地インドのチャンドラボアへ、英国娘が婚約者で治安判事の男を訪ねて来訪する。だが、まず植民地というだけで両者の関係は良好とはいえない。そしてその時期はちょうど、インドが独立する機運が高まってきていた時期だった。第一次世界大戦が終わった直後、イギリスがインド支配に躍起になっていたのは、イギリス自体もその体制を維持するために追い詰められていたからだった。
1919年。第一次世界大戦中のガリポリの戦い、および希土戦争(きとせんそう、1919年 – 1922年)の様子を描いている。希土戦争とは、第一次世界大戦後にギリシャ王国とトルコの間に生じた戦争で、ギリシャ軍がムスタファ・ケマル・パシャ率いるトルコ軍に敗北し、セーヴル条約で得た領土を失い、現在のギリシャ領がほぼ確定した。
1950年~。彼女はマケドニアのクリスチャンだ。そして、彼女が身を捧げたのはヒンズー教徒とイスラム教徒が9割を占めるインドだ。当然、排斥され、差別された。では、なぜ彼女はガンジー、ネルー(インド初代首相)の次にインドで国葬されたのだろうか。すべてのクリスチャンが目を通すべき真実である。
1979年。イラン革命が沸点を迎える1979年、アメリカの要人たちは、イランから脱出しなければならなかった。だが、それは困難を極めた。誰もが無理だと言った。そこへ、ある男がCIAに現れる。果たして、彼は無事に彼らを救出できるか。それとも、目の前の恐怖に信念を折られるのか。
2001年頃。パレスチナ問題然り、パレスチナ(エルサレム)という場所はアブラハムの宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム教)の人々にとって重要な場所である。サラディンが制圧して以降、1948年にユダヤ人がイスラエル国を強引に建国するまでは、分け合ってこの地で生きていた。自爆テロは、なぜ行うのか。彼らの心境は一体どういうものなのか。すべての現代人は、このエンディングで凍り付く。
2000年以降。CIAの秘密工作員として世界で活躍するディカプリオ演じる主人公。彼のその極秘任務の中にはイスラム過激派の潜入調査もあった。だが、彼はそこで両者の間にある深い溝を思い知ることになる。
グリーン・ゾーン
2004年以降。「グリーン・ゾーン」とは、かつて連合国暫定当局があったバグダード市内10km2にわたる安全地帯のことである。物語はアメリカ占領下のグリーン・ゾーンで起こるミステリー作品となる。
2004年。タイトルはアメリカ軍のスラングで「苦痛の極限地帯」、「棺桶」を意味するが、街中で簡単に爆弾テロが行われるイラク戦争において、『爆弾処理』という役割を命がけで果たす男たちが描かれる。
2008年に起きたムンバイ同時多発テロの際、タージマハル・ホテルに閉じ込められ、人質となった500人以上の宿泊客と、プロとしての誇りをかけて彼らを救おうとしたホテルマンたちの姿を描いている。
2009年に発生したマースク・アラバマ号乗っ取り事件でソマリア海賊の人質となったリチャード・フィリップスを描く伝記映画。ソマリアというのは海賊行為がビジネスとして蔓延していた。
インド映画の至高の名作。インドの悪い部分にもスポットライトを当てながら、しかし人間として生きていくために絶対に欠かせない『前向きさ』が作品に込められている。インド特有のダンスシーンもあるが、それが気にならないほど、インドの良い部分を観ることができる優秀な映画だ。
運営者
200年頃、中国では『三国志』の時代に突入し、『三国時代→晋→南北朝時代→隋』という流れにありました。楊堅が『隋』を建国する10年ほど前の570年。アラビア半島西岸の都市、メッカにて、この世界に莫大な影響を与える人間が登場します。それがムハンマドです。
時は610年。570年に生まれたムハンマドは、40歳という年齢になっていました。しかし、イスラム教最大の聖地であるメッカ(サウジアラビア)にはその時、健康の神『アルウザ』、繁栄の神『マナト』、部族の守護神『アラト』、隊商の運命を握る神『ハラト』など360の神々がいて、供え物を神官たちが着服している不誠実な現状が広がっていました。慣習は腐敗し、神々は崇拝の対象で『財源』だというのです。
奴隷を救い、黒人を差別せず、女性子供、老人、働く者には一切手を出さず、あくまでも正当防衛になるのであれば、反撃を認めたムハンマド。聖戦(ジ・ハード)の考え方を悪用する人間は過激ですが、では私の目の前で最愛の人が殺されそうになっているとき、『赦し』でもってその場面を解決しようとするなら、私は人間失格です。真理はいつも正しい。だが、人間は間違える。彼自身は決して、好戦的な人間ではありませんでした。
2.『イギリスとインドの微妙な関係』
イギリスは大英帝国時代、インドを植民地として支配した。
今回配合するレシピはこちらです!
- 『ヴィクトリア女王 最期の秘密』
- 『マニカルニカ ジャーンシーの女王』
- 『奇蹟がくれた数式』
- 『インドへの道』
- 『ガンジー』
1858年頃。インド大反乱の女性指導者ラクシュミー・バーイーを描いている。この場合は上記作品と違って『謎の誇大演出』があるので、見づらい。歴史的にはかなり重要で、専門書にも名前が書いてあることが多い人物だけにもったいない。
1914年頃のシュリニヴァーサ・ラマヌジャン。それは、インドの天才数学者で、数学を知る人ならだれもが知る人物である。あの核廃絶に対する共通の想いから親交のあったあのアインシュタインと「ラッセル=アインシュタイン宣言」を打ち出したバートランド・ラッセルも登場する、貴重な作品だ。
第一次大戦後の英国の植民地インドのチャンドラボアへ、英国娘が婚約者で治安判事の男を訪ねて来訪する。だが、まず植民地というだけで両者の関係は良好とはいえない。そしてその時期はちょうど、インドが独立する機運が高まってきていた時期だった。第一次世界大戦が終わった直後、イギリスがインド支配に躍起になっていたのは、イギリス自体もその体制を維持するために追い詰められていたからだった。
イギリス領インド帝国を舞台に非暴力・非協力運動を展開したインド独立運動の指導者マハトマ・ガンディーの生涯を描いた伝記映画。この映画では特にイギリスとの軋轢は描かれないが、ガンジーはヴィクトリア女王を、『インドの自由のために尽くす女帝』として敬愛していた、という記述がある。
運営者
このガンジーの発言ですが、ヴィクトリア女王と言えば、大英帝国のアイコンとも言えるほど、その最盛期にトップとして君臨していた人です。エリザベス1世の時代から奴隷ビジネスが水面下で行われていたことを考えると、ヴィクトリア女王も同じようにしていたはずです。そうしないとここまで巨大化した組織を運営することはできませんからね。よってこの『インドの自由のために尽くす女帝』という言葉は首をかしげざるを得ません。
ただし、例えばガンジーは最初、外から見たら明らかに理不尽に見えるカースト制度を、職業の分担という観点から肯定的にとらえており、カースト制度そのものの制度廃止には賛成しませんでした。カースト制度を「ヒンドゥー教の根本的な制度」として擁護し、称賛していたのです。ただ、その後に「宗教と何の関係もなく、起源不明の習俗に過ぎない」と考えるようになり、後年『カーストはなくなれ』という小冊子を発行しています。
このことからも、彼は優れた学習能力を持つ人間であったことがうかがえます。普通、人間ならこのように段階的に真理に近づいていく状況を生みますよね。おねしょをして、しなくなって。恥ずかしくて意見を言えなくて、そのうち言えるようになって。そうして子供から大人になり、そして彼の場合は『その先』へ続く道を探究していった。特に彼のように高名な立場にあると、頑迷になりがちです。世界を見渡せば、自分の考えを押し通してついには戦争を仕掛けてしまうような為政者もいますが、彼は『方向転換』という勇気ある行動を取ることができています。そう考えると、このヴィクトリア女王に対する発言も、様々な角度からとらえ、これだけで判断しないようにするべきだということが見えてきます。