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この世界に『映画』というものは一体いつ誕生したのでしょうか。
この世界に映画が登場してから130年。世界最初の映画は、1888年(明治21年)にフランスのルイ・ル・プランスが生み出しました。更に詳細を見てみましょう。
まず最初にジョージ・イーストマンというコダックの創業者が『ロールフィルム』を発明。それによって連続撮影のスピードが著しく速くなり、写真機の主流となります。このようなロールフィルムは、1888年にイギリスの写真家であるエドワード・マイブリッジやルイ・ル・プランスが映画用フィルムを発明する元となり、レオン・ブリ―、トーマス・エジソン、リュミエール兄弟、ジョルジュ・メリエスらによる映画の発明のための基礎技術となります。
1888年にアメリカの実業家、発明家のイーストマン・コダックの創業者ジョージ・イーストマンが、ロールフィルム・カメラの特許を取得。これによって連続撮影のスピードが著しく速くなり、写真機の主流となる。
このあたりの人物が『映画の最初』に極めて重要な立場で関わった人物と言えます。
このうち、エジソンとリュミエール兄弟には『映画の父』という異名があります。エジソンという人物は『エジソンズ・ゲーム』という映画を観ても分かるように、『THE・ビジネスマン』のような人だったので、かなり強引なところがありました。しかし、ユニクロことファーストリテイリングの社長、柳井正が、
と言っているように、その強引さと狡猾さは、ビジネスの世界では必要不可欠。自らの発明の権利を守るため訴訟を厭わなかったことから「訴訟王」の異名も持つ彼ですが、彼のような人物が携わったことは、商品やサービスが展開・浸透していく際に、極めて大きなポイントとなったでしょう。
[出典:Wikipedia]
例えば、ここに挙げた7名の重要人物の数名が『自殺、暗殺、失踪』等の物騒なキーワードと関連してしまっています。例えばもし破産が原因での自殺であれば、お金があれば解決したし、特許がらみの暗殺であれば、自己防衛の強かさがあればそれを未然に防ぐこともできます。私の恩師はかつてこう言いました。
『厳しくなければ生きていけない。でも、優しくなければ生きる資格はない。』
人間は、どちらか一方ではいけないんですよね。この中でエジソンが頭一つ飛び抜けて知名度が高い理由は、彼に『生き抜く厳しさ』が備わっていたからだと言えるでしょう。
『エジソンズ・ゲーム』
1880年代のアメリカで、電力の供給方法を巡って直流送電派のトーマス・エジソンと交流送電派のジョージ・ウェスティングハウスが繰り広げていた電流戦争の様子を描いている。エジソンは蓄音器、白熱電球等の多くの商品を生み出し、リュミエール兄弟と並んで「映画の父」とも言われている。
更にビジネスの厳しさを理解したいなら、その柳井正や孫正義が座右の書とする『成功はゴミ箱の中に』の著者であり、マクドナルドを世界企業にしたレイ・クロックの自伝映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』を観て、
というセリフに、注目するといいでしょう。宮崎駿には『鈴木敏夫』という強力な相棒がいますが、彼も『鈴木さんと二人だからやってこれたんだ』と明言しています。ただ、『いい商品がある』というだけでは、ビジネスは成り立たないんですね。
『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』
一介のセールスマンだったクロックが、マクドナルド兄弟が営んでいたマクドナルドを世界最大のファーストフードチェーンに成長させ、兄弟の持つ経営権を手中に収めるまでを描いている。この作品がビジネスではなくここに該当するところがポイントだ。
ルイ・ル・プランスが生み出した『最初の映画』と言われる作品は、オークウッド・グランジ庭園を歩き回る人々を撮影した上映時間はわずか『2秒』の作品で、タイトルは『ラウンドヘイ・ガーデン・シーン』。
1888年にルイ・ル・プランスが制作。『世界初の映画』となる。
これが『映画』の端緒となりました。その後、1895年にリュミエール兄弟が世界最初の実写映画『工場の出口』を公開。これが世界初の実写商業映画となりました。その後、ジョルジュ・メリエスが1896年に『夫人の雲隠れ』を公開。これが75秒の作品でした。
そして1899年に『シンデレラ』が登場。これはフランスの映画で、ディズニーのそれは1950年です。ディズニーは最初、1920年頃に『アリスの不思議の国』という実写とアニメーションが混じった映画を作成し、オズワルド、ミッキーマウス等と次々と名作ヒットを飛ばします。
ジョルジュ・メリエスはその後、1902年に『月世界旅行』を公開。この作品自体は10分程度でした。彼は今でいうジェームズキャメロンみたいなクリエイティビティの高い人で、『月世界旅行』は『アバター』に近い衝撃の冒険作だったのだといいます。
『月世界旅行』
1902年に公開されたジョルジュ・メリエス監督・脚本・主演によるフランスのサイレント映画である。地球に帰還するという物語で、ジュール・ヴェルヌの小説『月世界旅行』(1865年)とその続編『月世界へ行く』(1870年)など、様々な作品から着想を得ている。ジュールヴェルヌは、フランスの小説家で、ハーバート・ジョージ・ウェルズ、ヒューゴー・ガーンズバックとともにサイエンス・フィクション(SF)の開祖として知られ、SFの父とも呼ばれる。
サイレント映画からトーキー映画へ
[出典:Wikipedia]
サイレント映画が流行し、1914年にはイギリスのチャップリンが『成功争ひ』で映画デビュー。この頃ちょうど日本は大正時代。大正初期の華族の純愛を描いた三島由紀夫原作の『春の雪(2005年)』では、外国映画の吹き替えを、専門のナレーターがすべて一人で、その場で行う当時の日本の映画鑑賞のスタイルが見ることができます。
『春の雪』
その後、第一次世界大戦(1914-1918年)を経て、1920年代に『トーキー』と呼ばれる映像と音声が同期した映画が登場。サイレント映画(無声映画)の対義語として『トーキー映画』とも呼ばれることもありました。『アーティスト』という映画では、まさにそのサイレント→トーキーへと移行する時期の俳優たちの葛藤などを描く物語が展開されています。
1921年に公開されたサイレント映画。監督・脚本・主演チャーリー・チャップリン。
『アーティスト』
時代背景は1927年のハリウッド。説明した通り、このあたりからトーキー映画だとか、カラー映画だとかが出てきて映画界にもパラダイムシフトが行われていく。だがその時代でスターだった俳優は、その時代の変化についていけたのだろうか。
[出典:Wikipedia]
ここからウォルト・ディズニーの時代がやってきます。1928年にはディズニー制作の短編アニメーション作品『蒸気船ウィリー』が上映。
これは、世界初のトーキー・アニメーションというわけではなく、インクウェル・スタジオの『ソング・カー・テューンズ(Song Car-Tunes、1924年 – 27年)』ポール・テリーの『ディナー・タイム(Dinner Time、1928年)』などの後に製作されたミッキーマウスの短編映画シリーズとして最初に公開された作品。『蒸気船ウィリー』は、サウンドトラック方式を世界で初めて採用した映画でした。
ミッキーの元である『オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット』は、1927年から制作が開始され、全26作品がサイレントで作られていました。1928年に権利がユニバーサル・ピクチャーズの手に渡り、ディズニーは新たなキャラクター・ミッキーマウスを作ったのです。
1928年11月18日にアメリカで公開されたディズニー制作の短編アニメーション作品。
ディズニーのことを詳しく知れるドキュメンタリー映画がありますので、それを観れば彼がどのような人物で、なぜ映画界に進出し、そしてどのような経緯でディズニーランドを作ったのかということがすべてわかります。チャップリンとの関係も見えてきます。彼は1920年代に、チャップリンに憧れて映画を作りたいと思ったんですね。
『ウォルト・ディズニー』
ウォルト・ディズニーのドキュメンタリー映画。ビジネスの面から考えても、人生哲学の面から考えても、アメリカの歴史を考える際においても、非常に教訓高い資料である。
第二次世界大戦があった時代でもある1930年代~1940年代は『ハリウッド全盛期』、『アメリカ映画の黄金時代』。アメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まって、年間400本以上の映画製作本数があり、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にありました。
『赤ちゃん教育』(1938)等で有名な、2020時点で演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優であるキャサリン・ヘップバーンは、1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」で女優部門の1位に選ばれています。
『赤ちゃん教育』
2020時点で演技部門においてオスカーを4回受賞したただ一人の俳優であり、1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」で女優部門の1位に選ばれているキャサリンヘップバーンの代表作。演出に志村けんか何かがいるのではないかと疑うほどのコントのようなシーンがある。
これがWikipediaにあるそのリストの一部ですが、『カサブランカ』(1942)等で有名なハンフリー・ボガート。『素晴らしき哉、人生!』(1946)のジェームズ・スチュアート、『ゴッドファーザー』(1972)のマーロン・ブランド、『シャレード』(1963)のケーリー・グラントなど、この時代を活躍した俳優たちがランキングのトップを飾ります。
『カサブランカ』
親ドイツのヴィシー政権の支配下にあったフランス領モロッコのカサブランカを舞台に、かつて深く愛し合った末に別れた男女の思いがけない再会と愛の再燃を描いている。
『素晴らしき哉、人生!』
アメリカでは不朽の名作として毎年末にTV放映されることから、それまでキャプラを知らなかった若い世代から再評価され、今ではクリスマスにこの映画が流れるのは定番となり、アメリカで最も親しまれた作品としてよく知られる映画である。これをモデルにしたニコラス・ケイジの映画『天使のくれた夜』も名作である。
『ゴッドファーザー』
この世界にマフィアがどうやってできたのかという話が根幹にあり、かつアメリカで暗躍する実在のマフィアたちの歴史なども混じっていることから、この映画は芸術性も高く、歴史的にも重要な映画である。
『シャレード』
富豪の夫との離婚を決意した女性。旅行からパリの自宅に戻ると、家財道具一切が部屋から持ち出されており、夫の姿も見えない。そこへ、司法警察の警部が現れ、夫の死を告げる。遺されたのは、小さなバッグに手帳、櫛、万年筆、レジーナに宛てた未投函の手紙、偽名のパスポート4通。そして、なぜか彼女は命を狙われることになる。
1937年にはディズニー初の長編カラーアニメーション映画『白雪姫』が登場。以後、ディズニーのアニメーション映画は常に世の人々を楽しませてきました。
1937年のアメリカのファンタジー映画。ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ製作で、世界初の長編アニメーション映画である。
そして1954年には、日本で『ゴジラ』が誕生。映画というエンターテインメントに込められたゴジラの『反核』という世界共通のテーマは、映画を哲学的で高尚な次元に引き上げ、映画界に大きな爪痕を残し、戦争で疲弊した世界を一つにしました。
[出典:Wikipedia]
映画監督で言えば、黒澤明は、ジョージ・ルーカス(スターウォーズ、インディージョーンズ等)やスティーブン・スピルバーグ(E.T.、ジュラシックパーク等)から尊敬され、日本映画が世界に通用することを証明しました。例えば『ゴッドファーザー』(1972年)で有名な監督フランシス・フォード・コッポラは
と言い、スピルバーグは彼を
と評し、彼がどれだけ映画監督として重要な人物だったかを教えてくれています。彼は『作中で読まれることがない手紙の文章』まで書いた完璧主義者として有名でしたが、同じような完璧主義者がアメリカにもいました。スタンリー・キューブリックその人です。
[出典:Wikipedia]
彼は映画史における最も偉大で影響力のある映画製作者の一人と言われることも多く、些細なシーンさえも納得するまで撮り続ける姿勢は完璧主義者と言われ、また「完全主義者」ともいわれていました。例えば『シャイニング』のジャケットにも採用された、この映画の象徴ともいえる「叩き割ったドアの裂け目から顔を出したジャック・ニコルソンの狂気に満ちた表情」を撮るためにキューブリックはわずか2秒程度のシーンを2週間かけ、190以上のテイクを費やしました。
『シャイニング』
スティーヴン・キングが1977年に発表したホラー小説。キューブリックが映画化し、主演がジャックニコルソンというスペシャリストが終結した伝説の映画。
黒澤明は『バリー・リンドン』における正確な時代考証を高く評価していて、晩年にはキューブリック宛にファンレターを送っています。結局、キューブリックが返信の内容に悩んでいる間に黒澤明が他界、そしてその6ヶ月後にキューブリックも急逝しました。しかし彼らはお互いを認め合っていたのです。ちなみに、宮崎駿もわずか2秒のシーンに一年半以上の時間をかけて絵を描くほどの、強いこだわりを見せています。
彼のこの言葉はとても深いものがありますね。スタジオジブリには黒澤明の『七人の侍』などの写真が飾ってあったり、キューブリックも「どちらかを選ばなければならないとしたら、チャップリンだ」と言って、ロシアの映画監督とチャップリンに非常に強く影響を受けたと言っていますが、前述したウォルト・ディズニー然り、天才たちが共鳴しあう様子を見ると、何か感慨深いものがありますね。ちなみにキューブリックは、スピルバーグとも仲が良かったといいます。
『バリー・リンドン』
黒澤明は『バリー・リンドン』における正確な時代考証を高く評価しており、晩年にはキューブリック宛にファンレターを送っている。キューブリックは返信の内容に悩んでいたが、いざ返信を出す前に黒澤は他界、その6ヶ月後にキューブリックも急逝した。
『七人の侍』
日本の戦国時代の天正年間(1586年)を舞台とし、野武士の略奪に悩む百姓に雇われた7人の侍が、身分差による軋轢を乗り越えながら協力して野武士の襲撃から村を守るという物語である。
[出典:Wikipedia]
前述したチャップリン、キャサリン・ヘップバーン、ハンフリー・ボガートらも含め、映画界を華麗に盛り上げてくれた数々の映画スターたちの存在も忘れてはいけません。
1953年にはオードリー・ヘプバーンが『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得。1955年のマリリン・モンローの『七年目の浮気』に登場する白いドレスが風で浮き上がるシーンも有名ですね。ヘプバーンを含め、『ダイヤルMを廻せ!(1954年)』のグレース・ケリー、『クレオパトラ(1963年)』などで有名なエリザベス・テイラーの4人は、現在も映画界の圧倒的『四大美女』として君臨し続けています。
このような言葉を言えるヘプバーンには知性がありました。ただ容姿に恵まれていたから美しかったのではないのです。
『ローマの休日』
イタリアのローマを表敬訪問した某国の王女が滞在先から飛び出し、市内で出会った新聞記者との1日の恋を描いている。トレヴィの泉や真実の口などローマの名だたる観光スポットが登場する。刹那の時間。儚い恋。
『七年目の浮気』
夏の時期に妻と子供がいなくなり、どこか心が解放的になって独身時代の『男である自分』を思い出したのか、当時の自分と現在の自分との間で葛藤を繰り広げ、美女に惑わされる男の様子が描かれる。
『ダイヤルMを廻せ!』
『クレオパトラ』
紀元前48年頃。世界三大美女であるクレオパトラは、一体どういう人物だったのか。女性の武器を利用する浅薄かつ狡猾な野心家だったのか。それとも。
美女だけで言うならまだまだ大勢います。例えば10人だけ挙げるとするなら、
そして女性を魅了した男性のタレントで言うなら、
などの錚々たる面々が頭に浮かびますが、まだまだその他にもたくさんの名優たちが映画界を盛り上げてくれました。エリザベス・テイラーと共に『ジャイアンツ(1956年)』で共演したジェームズ・ディーンは24歳という若さで亡くなりましたが、深い言葉を残し、映画界に歴史を刻みました。
今日に至るまで映画界を盛り上げ、繋いでくれた映画関係者、俳優、そして映画を愛したすべての人々に感謝です。多くの人が映画を愛し、時には涙し、時には大いに笑って、映画館で多くのドラマが生まれました。需要と供給、その両者が存在しなければ映画界の発展はあり得ません。
[出典:Wikipedia]
『ジャイアンツ』
彼のデビュー作『エデンの東』の著者であるジョン・スタインベックは「気難しい性格で、反抗的かつ感情的でありながら同時に冷静な一面も持ち合わせており、シニカルで傷つきやすい」と彼を表現したという。それは見事に彼がカメレオン俳優であることを裏付ける話だ。
移り変わる時代と世界規模の規格
『ニュー・シネマ・パラダイス(1988年)』という映画があります。映画館でのマナーを考える人はこの映画一つ観るだけで、『世界規模の映画の楽しみ方』があるということを知るでしょう。
映画を愛するが故に、一緒に鑑賞する人に自分と同じような考え方を求めることはわかります。私も、自分が勧めた映画を人がちゃんと観なかったり、早送りしたり、『ながら観』したり、トイレの際に一時停止をしないと憤りを覚えますし、なるべく自分の思い通りに映画を観たいので映画館には平日に行きます。
しかし、少し環境が違えば、映画がつまらないと感じたら途中で退出したり、音楽に合わせて踊ったりすることは当たり前なんですよね。映画館というのは色々な人が集まる場所なのです。色々な人が集まれば、それだけ考え方の違う人にも遭遇する可能性があるということ。映画というものは、そういう『世界規模の視野』も与えてくれる、アナザーライフ(もう一つの人生)なのです。
あの映画のようにテレビやビデオの普及で映画館が潰れる現象が起きてから40年。今ではスマホでも映画が観れるし、月額のインターネットサービスで多くの映画が観られます。例えば、音楽の世界でもレコード、カセットテープ、CD、MD、iTunes、YouTube Music等と進化し、大きなパラダイムシフトがありました。それによって一世代前の文化はアナログとなって売れなくなり、音楽界も大きな転換を迎えました。
時代の流れを変えることはできません。音楽の世界でそうした変化があったように、私は映画界にもそうしたパラダイムシフトがあってもいいと考えます。例えばマナーの話で言うなら、そうしたツールを使って自分の部屋で観るなら、音を立てても、寝っ転がっても、途中でトイレに行きたくなって一時停止をすることもできる。それはとても便利なことです。
しかし、こと映画に関してはやはり映画館での映画鑑賞もあるべきだと考えます。例えばゴジラの圧倒的なあの大迫力をスマホで100%体感しようと思うなら、それは無理な話だからです。
映画館で映画が観れるのは当たり前ではありません。様々な娯楽が規制されるサウジアラビアは2018年に30年ぶりに映画館が解放されました。映画館での映画鑑賞は、本来とても贅沢な時間の過ごし方なのです。全世界のセレブ・裕福な人たちの『有意義なお金と時間の過ごし方』のトップ10に、映画鑑賞が入っているんですよね。
『ニュー・シネマ・パラダイス』
中年を迎えた映画監督が、映画に魅せられた少年時代の出来事と青年時代の恋愛を回想する物語。主人公の少年期は「トト」と呼ばれていたが、彼がキュートで素晴らしい。もちろん、彼のことを息子のように扱うアルフレードもまた、素晴らしい。
一つだけ言えるのは、これからも人間がいる限り、未来永劫、映画はこの世界の人々に様々なドラマを与え、人生を彩る最高のスパイスであり続けるということです。私の人生も映画によって、とても色鮮やかなものになりました。それは、本当のことです。そうじゃなければ、有限のこの人生の貴重な時間を、ここまで映画鑑賞に費やすことはできません。
ソクラテスはこう言いましたが、本だけではなく、映画の場合であってもこれは同じこと。この先、時代の変化によって更に映画鑑賞の方法も多様性が出るでしょう。しかし、たとえどのような状況になったとしても、映画から人生の教訓や恩恵を得られる人は、『映画を真剣に観た人』だけなのです。彼ら、彼女らの人生を『アナザーライフ(もう一つの人生)』と捉え、映画の人生を自分のものにし、映画を120%満喫し、そして愛していきましょう。
1988年のイタリアのドラマ映画『ニュー・シネマ・パラダイス』Blu ray予告編。この動画でもその映画館の様子が見ることができる。
最後に時代を作った映画界のレジェンド作品たちを記載します。ここに記述しない作品の中にも、
等、様々な名作がこの世に誕生しました。『シンデレラ』等のディズニー映画、『トイストーリー』等のPixar映画や、現在の日本で圧倒的人気を誇る『千と千尋の神隠し』等のスタジオジブリの映画等、アニメーション映画も強力なコンテンツとなりましたね。日本では『君の名は。』も大きな旋風を巻き起こしました。『鬼滅の刃』の躍進にも期待しますよね。これから一体どんな映画が登場し、映画界を盛り上げてくれるのでしょうか。ワクワクが止まりませんね!
1950年代~:『ゴジラシリーズ』
身長50メートルの怪獣ゴジラは人間にとっての恐怖の対象であると同時に、煽り文句などで「核の落とし子」「人間が生み出した恐怖の象徴」として描かれた。また核兵器という人間が生み出したものによって現れた怪獣が、人間の手で葬られるという人間の身勝手さを表現した作品となった。
1960年代~:『007シリーズ』
『007シリーズ』は1962年代から始まり、『ミッション:インポッシブル』よりも35年以上先輩の映画だ。ショーン・コネリーから始まって、ダニエル・クレイグまで。イギリス秘密情報部 (MI6) の工作員であるジェームズ・ボンドは、世の男性に『ジェントルマン』と『ダンディ』たる男が何かを教えてくれた。
1970年代~:『スターウォーズシリーズ』
『スター・ウォーズ(Star Wars)』シリーズは、ジョージ・ルーカスの構想を基にルーカスフィルムが製作するアメリカ合衆国のスペースオペラである。後に『エピソード4/新たなる希望』と改題されるオリジナルの映画『スター・ウォーズ』(1977年)を皮切りに、『エピソード7/フォースの覚醒』(2015年)、『エピソード8/最後のジェダイ』(2017年)、『エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』(2019年)の続三部作が製作された。これらの9作品は「スカイウォーカー・サーガ」としてシリーズの柱となっている。実写スピンオフ映画『ローグ・ワン』(2016年)と『ハン・ソロ』(2018年)を合わせて、映画の合計興行収入は100億米ドル以上に相当し、現在、歴代映画フランチャイズの中で2番目に高い興行収入を記録している。
1980年代~:『インディジョーンズシリーズ』
インディ・ジョーンズ シリーズは、架空の考古学者であるインディアナ・ジョーンズを主人公とした冒険を描く映画、ドラマ、小説シリーズ、およびそれを基にした一群のフィクションである『インディアナ・ジョーンズ シリーズ』の、日本における名称である。『例の海賊』がこの世に登場するまで、この世界の冒険映画は彼一色であった。あの印象的なBGMもその勢いの拡大を手伝っている。
1980年代:『バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ』
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(Back to the Future)は、1985年のアメリカ映画。SF映画。略して『BTTF』『BTF』とも呼ばれる。世界的に大きな成功を収めた。現在では1980年代の最高傑作の一つ、SF映画の最高傑作の一つ、そして史上最高の映画の一つとされている。また、日本で『ベスト映画No.1』と映画好きにアンケートをとっても、これが必ず1位を獲る。
1990年代~:『ターミネーターシリーズ』
未来で起こる人類対機械軍の戦争。そこで主戦力となるサイボーグ兵器『ターミネーター』が、その戦争において人類勝利の立役者として英雄となる「ジョン・コナー」を抹殺するために、ジョンが産まれる前の時代に戻り、ジョンの母であるサラを殺すために未来から送られて来るところから物語が始まる。
1998年:『タイタニック』
アカデミー賞では『イヴの総て』(1950年)と並ぶ最多ノミネート作品となり、作品賞と監督賞を含む11部門を受賞し、『ベン・ハー』(1959年)と並ぶ単一作品での最多受賞作品となった。2010年にキャメロンが監督した『アバター』がこれを超えるまで、史上最高の興行収入を記録。この映画がすごいのは、3Dパワーもヒーローの総合パワーも使わず、単体でこの結果を出しているということだ。
2000年代:『ハリーポッターシリーズ』
説明不要のハリー・ポッターシリーズ。特に、3人が子供だった時代の作品は、素晴らしい。世界中で社会現象が巻き起こり、日本でもこの世界をモデルにした遊園地やアトラクションができてしまうほど。例えば、あのスタジオジブリであっても『ジブリパーク』が出るまでに相当な時間がかかった。
2000年代~:『パイレーツ・オブ・カリビアンシリーズ』
すべてのアドベンチャームービーを超越して天下を獲ったのが『パイレーツ・オブ・カリビアン』だ。インディ・ジョーンズ同様、あの気分を高揚させるBGMは、世界中の人々の胸を躍らせた。
2009年:『アバター』
『アバター』(Avatar)は、2009年に公開されたジェームズ・キャメロン監督によるアメリカ映画。3D映像による劇場公開が大きく取り上げられた作品であり、世界興行収入は2019年公開の『アベンジャーズ /エンドゲーム』に抜かれるまで歴代1位となる27億8800万ドル(当時のレートで約2518億円)を記録していた。そして2021年に中国での再公開によって興行収入が上乗せされ、歴代1位を奪還した。
2013年:『アナと雪の女王』
『アナと雪の女王』(アナとゆきのじょおう、原題:Frozen)は、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ製作による2013年公開のアメリカ合衆国の3Dコンピュータアニメーション・ミュージカル・ファンタジー映画。日本では『アナ雪』の略称でも呼ばれる。『レット・イット・ゴー~ありのままで~(Let It Go)』は、社会現象を巻き起こし、映画館で皆で揃って歌うという、新しい文化が生まれた。
2012~2019年:『アベンジャーズシリーズ』
上記にあるように2021年まで興行収入世界歴代1位の作品だった。たくさん展開があることに文句をつけようと思えばできるが、私は単純に映画好きとして、たくさんの展開が観れることがただただ楽しい。ドラマなど毎週一時間1クールやるのだから、この程度のボリュームなら何も問題はない。あまりにも痛快にヒットしすぎたので、マーティン・スコセッシなどの巨匠が『あんなものは映画じゃない』と発言したり、とにかく世界中に大きなインパクトを与えた。
タイトルにある『映画界のレジェンド』とは、
の4つの大きな軸で活躍した人物と作品たちのこと。では、映画界では彼ら、彼女らさえいればそれでよかったのでしょうか?
スタジオジブリの成功例で考えてみましょう。当時、『フック』というスピルバーグ監督の名作が上映されていましたが、紅の豚はこれを超える約28億円の売り上げを作った。これは前作の『魔女の宅急便』に続いて劇場用アニメ映画の興行成績日本記録を更新する記録でした。しかしこの達成の裏には『配給』という重要な要素の鍵があったと言います。
映画成功に欠かせない4つの要素
この4つの要素のすべてがなければ映画の成功はあり得ないのです。その時ジブリの為に動いてくれた有力な映画関係者がいたんですね。そしてもちろん、鈴木敏夫という名プロデューサーが必死に動いた。
そういう見えない要因が積み重なり、宮崎駿の群を抜く創造力、鈴木敏夫の巧みなプロデュース力、盟友高畑勲との切磋琢磨、糸井重里の作る秀逸なキャッチコピー、久石譲の壮大な音楽、私たちが名前までは知らない、宮崎駿が信頼するジブリ関係者全員の優秀な働き、そしてもちろん彼ら彼女らを裏で支えたご家族などの支えらと相まって、確固たる地位を築いてきたのです。
そう考えると、我々が決して普段目にしない『裏方』で活躍する人たちも含めて、名作に携わった人々は『レジェンド』だと言うべきでしょう。
最後に、おまけとして『人類の歴史と観る映画』のページを掲載します。ここでは、人類の歴史と共に、その時代に関係する映画を紹介しています。量が膨大なので、ご注意ください。