デュマの小説『モンテ・クリスト伯』を参考にしており、シェイクスピアの戯曲『ハムレット』の影響も指摘されている。ある映画批評集積サイトでの批評家支持率は100%で、『ゴッドファーザー』の監督フランシス・フォード・コッポラは本作を高く評価しており、冒頭の結婚式のシーンについて
「本音とたて前がまるっきり違うところなどは、シェイクスピアなんかよりずっとおもしろい」
「このシーンほど完璧なものを、他の映画で観たことがない。現代的なストーリーの要素が、分かりやすく、秩序立てて構成され、謎めいた悲劇が詩的に解明されていく」
としていて、『ゴッドファーザー』の冒頭の結婚式のシーンも、この映画に影響されたと言っている。
『黒澤映画』というのはいつその概念を知るかによって評価が分かれる。彼が出始めた時、彼の名が海外で知られるようになった時、またあるいは、彼が死んでしばらく時間が経って『世界の黒澤』という言葉が浸透した時、色々な状況で彼のことを知ることになる。だが、往々にして映画を観た後は、彼がなぜ有名なのかということを知るだろう。そこで疑問なのだが、
(なぜ彼のような映画監督が次々と出てこないのか?)
ということだ。とりわけ、この日本においてはデータが豊富にあり、その解析も簡単なのに、後に続いていない。真面目で勉強家が多い日本人が、これを取りこぼすことがあるだろうか。理由があるとしたらたった一つしかない。黒澤明が宮崎駿同様、見えないところで並々ならぬ努力と研鑽をし続け、『無知の知』を理解して越権的にならず、自分の人生を貫いたからだろう。
シェイクスピアは言った。
この映画を通して言うなら、『真理から目をそらさない』ということは、越権的な人間にはできない。そして、その真理の実態をより多く理解している人間は常に、秀逸である。