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『ローマンという名の男 -信念の行方-』 レビュー(感想)と考察

『ローマンという名の男 -信念の行方-』

 

 
 
サヴァン症候群の真面目で融通の利かない弁護士が、正義の為に生きるも、現実のシビアさに打ちひしがれて、すべてを慰めてくれる『お金』の誘惑に振り回される。

 

この映画で印象的なのは『彼と現代女性』のやり取りで、彼が若い女性に『女性なんだから座ったらどうだ』と立ち聞きする女性に注意するのだが、その言い方と注意という感じに抵抗感を覚えた女性が、『女性だからといって決めつけないで。私は好きで立ってるの』と、彼に時代錯誤を促し反論するシーンだ。

 

両方とも間違いである。彼も言い方には注意するべきだし、彼女も言い方には注意するべきだ。彼が彼女にしていることは『女性に対する配慮』で、それを断るというのならこの世から一切のレディファーストの概念は消し去るべきである。当然、重い荷物を持つことも自分でやり、席を立つ時に紳士が同時に立ってもらえると思わないことだ。男の世界は厳しい。それが当然のことだ。

 

また、このあたりを断片的にピックアップして『男、女と分けるのが古い』という方向に誘導するのも悪い。残念ながら男女は『違う』。差別ではなく区別するからこそ、男女別でトイレや更衣室が分かれている。それは当然のことだ。

 

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そうした区別の中、『男を知り尽くした』男の父親が若い娘を心配し、『あまり遊び回るな、遅くなるな』と厳しく注意することが『古い』と言うのなら、自分の人生で何が起きても何も文句を言わないことだ。泣くな。後で泣いて謝って、済む話と済まない話がある。そうした大人の男の『前始末』を侮辱し、ある種の『流行』を味方につけて配慮する人間を無下にするのは、無知そのものである。

 

だが、彼も言い方は悪い。彼の言い方は押しつけがましく、『そうあるべきだ』と頑迷である。それでは抵抗されても仕方ない。そこに、男女云々という要素は関係なく、単純に人として、それでは人は言うことを聞きたくない。『北風と太陽』である。

 

だが、そうやって人間関係も上手くいかないのが彼の病気ということであり、我々はデンゼルワシントンの有能さを知ってるから、途中、彼がサヴァン症候群ということを忘れてしまう。だから彼の行動に支離滅裂なことが多く、この映画自体が意味不明な様子になっていても、『デンゼルワシントンのせい』にしてしまうのだが、実は、病気のせいかもしれない。

 

そう考えると、色々と最後のシーンが感慨深いものになる。あのような最後で本当にいいのか、自分に問いかける。