ポスター画像出典:『ヤフー映画』
IQ185の天才だが対人能力はゼロに等しい19歳の少女が幸福を探し求めるというシナリオだが、IQが高いならそれらの問題も解決できるはずだし、そこに負い目を感じているならIQは低いか、IQ自体が意味のない指標ということになる。
だが実際にはIQというのは厳密に『運動神経、言語能力、文章能力、空間把握能力』等、様々なカテゴリーに分けて図られる。よって、よく『IQが高い天才は変人である』と言うのは、『IQが高い人というのはある能力だけが突出している人』ということを意味し、今回のような事態が生まれることになるわけだ。
例えばアインシュタインは数学や物理など、自分の好きなジャンル以外の成績は『1』だった。ただ、よく微妙な映画に『謎の設定』があり、(その設定はいるんだろうか)という感想が常に映画の邪魔をしてしまうのだが、やれサヴァン症候群だとか、やれ天才だとかいうことは、本当に必要なのか、考えないといけないだろう。
それが実話ならいいのだが、フィクションで、例えば天才のそうした設定があって、しかし作中でそこまで天才的な何かエンターテインメントが発動しないのであれば、観客は(一体なんだったんだ)として、その映画に何を期待して、何を学べばいいかわからなくなる。
また、ニッチすぎる例を出すと共感できない人が続出するから、結果的に多くに受け入れられず、興行的にも失敗するのではないだろうか。