『ビザンチウム』
ポスター画像出典:『ヤフー映画』
『吸血鬼の母娘を主人公としたモイラ・バフィーニ作の舞台劇をニール・ジョーダン監督、シアーシャ・ローナン主演で映画化』としていることからも、彼女よりもしっかりとしているはずのジェマアータートンが主演ではない。その他のキャストや吸血鬼というジャンルを考えても、やはり一瞬でも間違えてしまうとB級作品に転落する気配を持っている。シアーシャローナンを売り出すための作品であれば、もし彼女が立ち回りを一つでも失敗すれば終わりだ。
例えば彼女の他の映画でこの一年前の2011年に『ハンナ』という映画があったが、ほぼB級と言っていいほどのぞんざいなものだった。この映画では彼女が8割以上の重荷を担うので、作品が失敗すれば彼女の芸歴にも傷がついてしまうことになる。
この映画や『ハンナ』は別に彼女が出る必要はなかった映画だろう。一方で、存在感を表した『つぐない』や、頭角を現した『レディ・バード』は確かに彼女の役者としての確固たる芸歴となっている。どういう作品に出るかで役者の価値も変わってくるように見える。例えばスタンリー・キューブリックの映画は、57年以前の6作はまだ観ていないのだが、
1957年 突撃
1960年 スパルタカス
1962年 ロリータ
1964年 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
1968年 2001年宇宙の旅
1971年 時計じかけのオレンジ
1975年 バリー・リンドン
1987年 フルメタル・ジャケット
1999年 アイズ ワイド シャット
と、最後のトムクルーズとニコールキッドマンが主演のこの映画まで、ほぼすべての作品が伝説級の価値を持つ映画となっている。最後の3つなど、公開から12年ずつ空いているが、アルパチーノがほぼ毎年連続で何かしらの映画に出ているのに対し、こういう方法もあるわけだ。
一方で、そのアルパチーノは出演作品にどうでもいいような作品も含まれるので、どういう作品に出るかだけじゃなく、どういう考え方で作品を作るか、出演するか、ということで役者や監督の価値も変わってくるように見える。その視点を持っていうなら、この映画は別に『あってもなくてもどっちでもいい』映画になる。まずヴァンパイアというのは存在しないから共感できる人など存在しないし、その仄暗い雰囲気を上回るだけの教訓もなければ、全体的な華もエンタメ性もない。