『シークレット・パーティー』
ポスター画像出典:『Amazon』
これは内容的にも時間的にもB級的な内容なのだが、キアヌリーブスという役者の存在で、それを食い止めている。彼の場合ニコラスケイジのようにそれっぽい作品にもいくつか出ているのだが、まだそこまでは落ちていない印象だ。ニコラスケイジがまた『ナショナル・トレジャー』のような作品で映画館の主役になる日はイメージできないが、キアヌリーブスなら『マトリックス』でも『ジョン・ウィック』でもそれができる。
彼の映画『ノック・ノック』と近い内容で、キアヌリーブスが持つ爽やかで誠実なイメージとかけ離れるから、人々の評価は低い。だが私は経験が人一倍多いので、だからという理由だけで人を嫌いになるということはない。
例えばヒカキンがAPEXで暴言を吐いたからといって、文句を言って炎上させるような人々とは違う。人間なんだからそういうことはあるし、FPSゲームをやっている人なら誰でも彼の気持ちはわかることだ。彼以上にスポットライトを当てて問題視しなければならないユーザーがいて、その人間が問題の原因なのに、皆はそれをわかっていない。
もちろん、『子供も好きなヒカキンだから』という責任のこともあるだろう。NHKがその権威を守る為規制を厳しくするように、彼もそれだけ幅広い層に受け入れられるようになったということだ。だが、その代償にある種の自由を奪われるのはかわいそうな話である。
例えば俳優の調査をしていると、例えばシャーリーズセロンの場合はこういう記述を見る。
1996年に『2 days トゥー・デイズ』で映画デビュー。この作品で一躍知られるようになるが、「セクシーなブロンド役」ばかりのオファーが寄せられた
またアンハサウェイならこうだ。
2004年には『プリティ・プリンセス』の続編が公開され、9500万ドルのヒットとなる。これにより人気女優となったが、プリンセスのイメージが定着し、理想の役が得られずに低迷する。
このように、彼らの職業というのは『幅の広さ』を求められる場合がある。同じような役しかできない場合、例えばある年齢を超えたらもう他の人に回ってしまうとか、様々な理由があるのだ。
例えばキアヌリーブスはもう『マイ・プライベート・アイダホ』のような役割はできない。子役はもちろん、子供の役はできない。それであれば、模索はしなければならない。演技の幅を広げる為に、様々な役に挑戦しなければならない。映画を評価する時は、まずそういう裏事情もある程度想像しながらにするべきだ。
この映画で描かれるコールガールというは日本で言うとデリヘルなわけだが、その仕事も、そこで働く人の神経も分からないという『一般常識』を持った、ヒカキンの暴言に文句を言うような人はもちろん大勢いるだろう。
だが、いる。
彼女らのような人々はたしかに存在しているし、彼女らは彼女らなりに、答えのない人生をさまよう、遭難者なのだ。普通、遭難している者に冷たい視線は向けない。ここまで考えた上でこの映画を観ると、いささかただのB級映画には見えてこない。