ポスター画像出典:『映画.com』
『アウトロー』という映画は1976年のこのイーストウッドの映画と、2012年のトムクルーズの映画と有名なのが2つしかない。それだけ前者が名作だからということかもしれない。西部劇というのは日本で言う時代劇なのだが、それよりももっと身近なものらしい。
日本の場合は『着物、ちょんまげ、奉行、馬、刀』という要素はもうすでにほぼ無縁のものとなっていて、そこに映る景色はすべて作り物に見えるが、銃社会のアメリカは、今も昔もそこに銃があるわけだ。
また、広大な土地が広がるアメリカ、特に西部にはまだまだ荒野がたくさんあるし、犯罪も多い。それはつまり、警察の目が行き届かない場所があるということだし、銃を持った人に対しては、銃を持って制すというミッションが暗に課せられている彼らアメリカ人にとって、警察の代わりに『自警団』として悪人を制したこの時代、そして、アメリカという国の初期の荒野で活躍した『初代』たちの生き様は、共感を覚えるところが多いのだろう。
現在でも『カウボーイ』という言葉は、日本で言う『武士』のような意味があり、ビリーザキッドやジェシージェームズのようにたとえ強盗だとしても、彼らを通して『アメリカンドリーム』が見えるのかもしれない。現代に通用するものが見えるのだ。よって、シャーリーズセロンなども西部劇を観るのが好きだという。アメリカの深夜に、西部劇が放映されるのが日常だから、触れる機会も多いのだ。
そんな西部のカウボーイたちが活躍した時代と現在の『アウトロー(法の外に生きる者)』とでは意味が違う。しかし、挙げた二つの映画は単なる『悪党』の枠にとどまらない見応えのある映画だ。
ヤクザやギャングなど、単純に法律を破って生きている小悪党の話には奥行きなど何もない。だが彼らの場合は意味が少し違ってくる。トムクルーズの場合は、悪党が描かれるわけではない。だが、そこにいる人物は『普通の人間』ではなく、『ルールに縛られないある領域にいる人物』である。
その意味で、イーストウッドの今作もアウトローである。だが、今回の場合は更に意味が乗っかっている。それは、『戦争』である。戦争自体が、法律という人間たちが秩序を持って平和に暮らしていくために決めたはずのルールだったはずなのだ。戦争も、戦争に参加した者も全員、アウトローである。これは、そんなアウトローたちが歩いた道の『代償』を考える、哀愁のドラマである。