『青い珊瑚礁』
ポスター画像出典:『ヤフー映画』
10代の頃では真価が分からなかった。美女の裸に過剰反応して、茶化して終わり。だが、こんなに深遠で美しい映画だったのだ。大人にならなければ分からない映画である。最後に大きな決断を2つするのだが、それが深遠で美しかった。美男美女だから映画だが、教材に等しいテーマだからだ。親が死んだときの子供に対する『死後の話』もいい。
『お母さんは、お前達が人生で最後にたどり着く場所に先に行った。お前達は人生でたくさん経験してからじゃないと、そこにはいけないぞ。』
優しいし、温かい心が生まれる。この後、『ブルーラグーン』というミラジョボビッチ主演の続編も展開され、それもまた面白い。最後に少し内容に触れる感想を書くので注意してほしい。私は彼女たちのその決断の時、ふとこう考えた。
(彼女たちは一度あそこで、死んでいたのかもしれない。そしてこの島は彼女たちにとっての、天国だったのかもしれない)
と。私は無宗教だが、多くの勉強を積んだ。例えば、作家の五木寛之は、著書『大河の一滴』でこう言っている。
極楽浄土と一般に重ねていうところから、浄土と極楽は同じ世界のような受け取られ方をしがちだが、私はそうは思わない。浄土は極楽ではない。地獄・極楽とは人が生きている日々の世界そのもののことだろう。(中略)我欲に迷い、人や自然を傷つけ、執着深きおのれであるがゆえに、死んだあとの地獄行きを恐れているのではない。救いがたい愚かな自己。欲望と執着を断つことのできぬ自分。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きるいま現在の日々。それを、地獄という。
五木寛之は『極楽』と『浄土』を別々のものだと捉えた。『地獄・極楽とは人が生きている日々の世界そのもの』。つまり、『浄土』になるとあの世になると言っているようにも見える。だが、道元の一生を描いた映画『禅 ZEN』で道元の母が、
『世間では、阿弥陀様にお願いをすれば死んで浄土に行けるという教えが流行っているようですが、本当にそうでしょうか。浄土とは今ここ。生きているこの世こそが浄土でなければならないのです。』
と言うシーンがある。つまり、『天国(極楽)は、この世にある。死んだら天国に行けるのではなく、今生きているこの世界を、天国(住みよい世界)にしなければならない』という考え方があるのだ。そこまで考えた時、私は彼らが最後に取った選択肢を含め、この島で彼らが過ごしたかけがえのない純粋な時間が、意味のある世界に見えた。