『リトル・ブッダ』
ポスター画像出典:『Amazon』
『ブッダ(釈迦)』として世界で圧倒的に有名なのは釈迦一族の王子、ゴータマ・シッダールタである。彼は釈迦という通称で呼ばれるが、悟りを開いてから『ブッダ(悟りを開いた者)』の称号を得た。であるからこそ、ブッダというのは『彼の前にも』大勢いたわけだ。だが、知らない人からすれば『ブッダ=釈迦(ゴータマ・シッダールタ)』ということになる。
彼の一生は『手塚治虫のブッダ』等で観ることもできるが、神格化されているファンタジーだから好き嫌いが分かれる。それでも根幹にある教訓は真理なのだが、なるべく現実に近い方がいい。ということで、あのキアヌリーブスがシッダールタの少年時代を演じるこの映画は、何かと世界中から注目を浴びることになる。
ただし、この映画でもまだまだ足りない。ここではブッダの教え、つまり『仏教』の一つの要素を取り上げている。『輪廻』である。生まれ変わりという概念としてこの考え方は、実は西洋人の興味もそそることが多いようだ。それはなぜかというと、色々な映画でそれについて触れるのを観ることが多いからである。単純に考えて『生まれ変わってまたあなたと逢いたい』という考え方は、西洋だけじゃなく世界中のどこにおいても、ロマンチックな考え方として受け入れやすい。
だが実際にはブッダ自身は『私は生まれ変わらない』と言っていることから、仏教の中でも分かれた宗派の一つの教えということで、信憑性はあまり世界規格ではない。私も、ニーチェの考え方の方が合点がいく。
ニーチェはつまり、
『生まれ変わりがあると考えると、”次の人生で頑張ればいいや”という退廃的な考え方が生まれる。だが、この人生はたった一度しかないと覚悟すると、”今”を全力で生きる』
と言ったわけだ。その『今を全力で生きる』という真理はブッダだけじゃなく、すべての宗教でも強く説いていること。
アリストテレスは言った。
奴隷として生まれ、生きても、その連鎖を断ち切ることはできるとして、鼓舞させる。命を浪費させず、むしろ尊んで奮起し、その命を使い切って全うすることに命を賭けるようになる。ゴータマ・シッダールタとて、『負の連鎖を断ち切る』ことについて再三再四、弟子たちに教えたのである。
だがもちろん、『ではあなたは、こんな地獄の環境で生まれ育って、本当に来世に期待しないで現在を生きるか?』という状況も想像する必要がある。あたりに広がっているのが地獄のような状況で、奇病に侵され、痛み、苦しみ、悩みがつきない人生を強いられても、本当にそれが言えるかどうかについて、考えなければならない。
その時、『宗教』だろうがなんだろうが、光を照らして救ってくれる存在が現れれば、それが強く『大丈夫。来世では大丈夫』と説いてくれれば、人の心は揺らぐのではないだろうか、と言うことについても、想像しなければならない。
もちろん、それを想像した上での結論である。ブッダ自身、こう言っている。
本来、これが彼の教えなのだ。一切の執着をしないことで人間は初めて救われる。この世に執着しないことが彼の教えなのに、『生まれ変わって次の人生では楽をする』というのは、正しい仏教ではない。そしてブッダ自身、『本来、特定の宗教や信仰は必要ない』として、自分の教えが宗教ではないとも発言している。
こうした事実を直視して、知識と見識の基礎を積んだ状態で、初めてこの映画をエンターテインメントとして観る。まるで、『作ってはいけないのに蔓延している仏像』を、『一人間たちの当時の想いと技術を観る』のと同じように、
ブッダの教えがこういう風に展開されていき、現代にもこうやって影響しているんだなあ。そしてそれはいい影響もあれば、悪い影響もあり、人というのは実に儚く、無知で、他の動物と変わりないものだなあ
と、むしろそれらを通して森羅万象の諸行無常を理解するのである。