ポスター画像出典:『公式サイト』
『青い珊瑚礁』(1980年)の続編という位置づけで制作されているが、前作のストーリーと完全に連続しているわけではない。だが、前作と繋がっている部分も多くあるので前作が気に入った人なら、楽しめる要素が多い。前作は名作だったが、今回はどうか。結論は、今回も名作だ。
これは、一度我々が生きるこの世界を、哲学を学んだ後の頭で一通り考えた人間にしか見えない事実だが、キーワードとして重要なのは、
といったところである。勉強した人は、これらの共通点が根幹に『世界平和』だったり、『この世の在り方』があることに気が付くだろう。
例えば孔子は『そもそも為政者は必要ない』として、一人一人の主体性を訴えた。だが、韓非子は異を唱えた。人間は孔子の言うような高潔な存在ではない。『利己』に走り、損をすることを回避しようとする。それが人間の本性というものである。従って、法律によって刑罰を整えれば、人はそれを回避しようとして、犯罪を予防できる。法さえ完備していれば、国の秩序は保たれるとして、法の重要性を説いたのだ。
と主張したのである。更に、孔子の考え方に対立した者は、道教の創始者と言われる老子や、その教えを継いだ荘子である。儒教にある『人為』を否定し、『無為自然』を思想の根本に置いた。『天』に行きつく『道』を示したのだ。老子は『小国寡民』という考え方を主張した。
『小国寡民』とは、『小さい世界なら平和になるよ』ということ。韓非子同様の方向で、孔子の儒教と対立した。対立といっても『孔子の教え』では孔子が老子に教えを乞うシーンがあったりする。
さて、かなり奥行きが深くなってきた。確かにその考え方で見てみると、この島で過ごす平和な日々は、『小国寡民』の恩恵そのものである。だが、そこに治安を乱す外部の者がやってくるわけだ。そして、化粧などという『本来別になくてもいいもの』も、異性の気を引くという、ある種の自分本位な発想から誕生してしまうことになる。
私はこの記事で、『化粧やネオンの存在』の存在意義について考察している。もう、この記事だけで一冊の本と同じボリュームなのだが、ここまで真剣に観た人は、冒頭で私が言った言葉があながち、『自分勝手に書けるブログ』という特性を生かした、偏っている単なる見栄や虚栄ではないことに気づいただろう。
アダムとイブではないだろう。だが、確かに最初人は、こうして原始的だった。そして部族化し、無知の状態で自由に生きて、思想も自由で『神話』が生まれたが、そのうち部族のグループの中で秩序を求め、『宗教』という統一ツールが生まれる。
そして、それに抗うように『哲学』が登場。部族はやがて国となり、人の野心が暴走して帝国主義が生まれる。アレクサンドロス三世、カエサル、ナポレオン、チンギス・カン、ヒトラー、そして現在で言えばプーチンがウクライナやクリミアにやったことがそれである。
つまり、最初は『可愛い化粧』だったかもしれない。だが、以下の記事に書いたスタジオジブリの『空飛ぶ機械』の話のように、悪気はなくても、人間のふとした欲望の顕在化の延長線上に何があるかを考えると、いささか、『青い珊瑚礁』も含めたこの原始的な人間の生活は、見て見ぬふりはできない。