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『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』 レビュー(感想)と考察

『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』

ポスター画像出典:『Unext

 

 

 

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ピュリッツァー賞やトニー賞を受賞した舞台劇『プルーフ/証明』を映画化していることもあり、シナリオ自体は面白い。興行的には赤字だが、完成度は高いので見るべき映画として人に勧められる。もちろん、冒頭の賞のことは今調べて初めて知っているので、それは後付けで作品の価値には関係ないことだ。知る前から私はこの映画のメモとして、蛍光ペンを引いていた(面白い映画には引く)。

 

ゲーテは言った。

 

私にとっても本当に縁が深いこうしたテーマ。その乖離を、無知な人の為に埋めなければならないことに私は意味を見出せない。教師ではないからだ。そして私が実際には教師になる要素を持ち合わせているのにしないのは、人のことを自分よりも愚かだとは思っていないのである。

 

親は子供にものを教える時、自分より『無知で無力』だと知っているからものごとを教える。だが、それがいつまで続くかは分からない。ある時期から自立を促す意味でも教えなくなるケースも多い。たいていの場合、私が言う『人』とはその年齢に達している人である。おこがましいのだ。自分が人を自分より無知と決めつけて物を教えることは、越権行為のように思える。

 

また、主体性は親の例で言ったように放置することで促される事実もある。何もかも指示、指導することは私の人生では日常茶飯事なのだが、そうすると目の前にいるのはいつも『YESマン』だ。恋人でさえそうだった。自分で物事を決めず、人形のようだとして、別れたこともある。そこにはどこか、無責任ささえ覚えた。

あるとき、筆一本で食べていこうと決意した尾崎行雄が福沢を訪ねたときの話だ。尾崎が『識者(物事の正しい判断力を持っている人。見識のある人)』にさえわかってもらえればそれでいいから、そういう本を書きたいと話したところ、福沢は、

 

馬鹿者!

 

と一喝した後、こう言ったのだ。

さしずめ私は、尾崎行雄である。本当に賢い人というのは福沢諭吉のように乖離を埋められる人だということは分かっている。だが、往々にして自分の理解を求めてアピールする時、虚しい。

 

 

そう言った鬼才、グリゴリー・ペレルマンのように、孤高の道を歩こうとしてしまう。

 

 

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