ポスター画像出典:『Amazon』
脚本家ラリー・クレイマーの自叙伝的舞台作品であり、つまり実話である。製作総指揮にはブラッド・ピットもいるが、テレビ映画である。だが、テレビ映画の割には普通の映画との差はほとんどなく、むしろ普通の映画にテレビ映画のようなクオリティのものがあるので、どちらでもほぼ変わらないわけだ。
そもそもテレビ映画の方が格下の意味があまりわからないが、恐らく製作費ということだろう。映画は単体で勝負しているようなイメージがある。だから一本一本を世界中に告知して回らなければならない。だがテレビなら番組の枠内にはめられるので、流れでそれを観る人をキャッチすることができる。
店舗の集客と同じだ。ある美容室は利用者にはとてもいい環境だった。広々としていて、余裕がある空間だったからだ。だがある時から大型の商業施設に組み込まれてしまった。そのせいで、快適な空間はなくなってしまい、利用満足度は確実に下がった。
だが売り上げは上がったのだ。なぜなら、その商業施設の集客の流れができているからである。つまり、もし美容室自体の売り上げがなくても、そこで売る化粧品の売り上げが上がるのだ。店が生き残る為にそれは取るべき選択肢だった。
そう考えると、この作品は商業施設に組み込まれているような類の作品になるが、しかしクオリティと教訓性が高く、ここまでくると映画が持つ威力と同等のものを感じるのである。同じテレビ映画でもアルパチーノの『フィル・スペクター』は、この域には達していない。
では何がいいかというと、圧倒的に教訓性である。まず、ゲイがどのような存在であるかということについて、考えさせられる。ゲイも含めてLGBTの正当性を騒ぐ昨今だが、その答えは常に曖昧なわけだ。それを容認しないと時代遅れである大きな流れがあるだけで、まだここに確固たる答えを見つけたわけではない。そして、1981年のその頃、まだ『エイズ』が『謎の伝染病』としてでしか認知されていなく、これがゲイがこの世に生み出した悪の根源であると認識されていた。
確かに、もう冒頭からふしだらな彼らの実態が描かれるので、彼らがどうしても『悪』にしか見えないわけだ。だが、それを認めないといけないわけだろう。そして、『ダラス・バイヤーズクラブ』のように、同性愛者だけがエイズにかかるわけではないのだ。
だが、圧倒的に同性愛者がかかり、苦しみ、最後には死んでしまう。それが一体何を意味するか、色々な奥行きを想像してしまう人が出るのは当然ではないだろうか。
火をつけて燃えるなら、紙を火に近づけてはならない。同じように、人はただその因子同士の接触を『危険』だととらえて、反応しているだけだ。多くの人は思慮深いわけではない。パッと考えて反応すれば、そういうことになる。
では、同性愛はいけないのか。LGBTを受け入れなければならないのではないのか。もしくは、性別不合というのは本当のことで、しかし、その考え方を持って『普通の人間』のように人生を生きようとすると壁にぶつかるということで、彼ら、彼女らは、まるでこの世に生を生きたが、難病を患って早死にしてしまう運命を負った人達のように、単なる病人なのだろうか。
普通の人間と同じだと考えるから壁にぶつかるが、もし病人の類になるならば、足に障害を持った人が杖や車いすを強いられるように、『普通の人間』と同じ人生は、送れない。
いつも通りこのテーマは考えさせられる結果に終わる。とりわけ今回の映画は実話ということ、そして1981年のその頃、そういうパーティが当然のように存在していたこと、そしてエイズが『原因不明の伝染病』だったということ。これらの事実と触れることができる点において、価値のある映画である。