ポスター画像出典:『映画.com』
とにかく主演のマーリー・マトリンが美しい。当時21歳だった彼女は史上最年少でアカデミー主演女優賞を受賞。彼女は実際に耳が聴こえない人である。この映画には驚かされた。1986年という古い映画に不変的なインテリジェンスを感じるのは珍しいことで、むしろほとんどない。私がこの時思い出した他の類似映画は『インセプション』などの類だ。展開が読めず、その展開が理にかなっていて、そのスピード感が賢いのである。人間は、
として、脳の使い方を分けるものだ。分かりやすく例を出そう。
『これやっておいて』『はいわかりました!』
『これやっておいて』『え?・・えーと今日は用事が・・あったかな・・たしか、あ、はい。でも、できるかな・・あの人の方が』
どちらがどっちかということは説明する必要はないだろう。質問や直面する問題に対し、スッと来たら即答でサッと返す。こういう脳の使い方をする人は、何も考えていない無責任な人間か、相当な下積みがあり、基礎を積んでいて、そのデータを元に算出したから紛れもなくそれができる、という算段の上での人かどちらかだ。
だが迂回脳的な使い方の人は、未練がましく、自信が持てない。責任転嫁に慣れていて、なるべく楽をして生きていきたい。それによって誰かに負担が回ることになっても自分本位だからそこまで気にならない。そう考えた時、どちらが知的な脳の使い方であるかということは一目瞭然だ。もちろん短絡的に直線脳だから賢いということではない。基本的な考え方がこれである。
そうした一つ一つの事実を照らし合わせて考えると、この映画の展開と彼らが織りなす会話や意思疎通は、とても感心するレベルである。障害を負った人という、『常識から外れた人生』を送る人と、それを教育する人を『猛者』と考えた時、この要素を受け入れることができる。壁があることが当たり前という前提で展開される知的な物語からは、尊ささえ感じたのである。