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『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』 レビュー(感想)と考察

『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』

 

 

戦争を経験したアンソニーホプキンズが演じる男は、先住民を救えなかったことに腹が立っていた。アメリカ人というのはイギリスからやってきた人間だ。ローマ帝国の国教がキリスト教になり、それが世界に普及していき、この世界でキリスト教が圧倒的なシェアを広げるに至った。そしてそれが後に1000年間続いた『暗黒時代』と言われるキリスト教一強の時代を生み出し、カトリック教会の腐敗が起き、それに逆らってドイツのルター等が宗教改革を起こす。

 

そしてキリスト教はカトリックに反発するようにルター派(プロテスタント)やカルヴィン派などに分派。その後もたくさん派閥ができるが、基本的にそれらはカトリック(大筋のキリスト教)に逆らうようにして起きたのだ。そのカルバンは、ジュネーブを神聖な国にしようとし、より厳格な規制を考えた。歌も大声も、踊りも酒も禁止。それができない人間は汚れているとして、異端扱いした。つまり、カトリックがキリスト教の名前を汚した越権行為をしていたため、彼らのような、

 

浄化するべきだ!もっと神聖であるべきだ!

 

とよりシビアな態度を求めるような人間を出してしまったわけだ。しかし度が過ぎた極端なカルバンによって追い込まれたピューリタン、つまり『普通の心を持った清教徒(プロテスタント。カトリックではない者)』は、居場所がなくなり、アメリカ大陸に新天地を求めた。そして北アメリカ大陸に移入したということなのである。彼らは貧しく、渡航費はなかったが、移民先の大農場で労働することを条件に、アメリカに移ったのである。そうしてできたのが『アメリカ合衆国』だ。彼らは英語を喋るだろう。彼らの大元はイギリス人なのである。

 

では、そのアメリカ大陸で元々暮らしていたインディアン(先住民)はどうしたのだろうか。彼らはコロンブスがそこをインドと間違えてからインディオ(スペイン語)と呼ばれるようになり、その上、土地を開拓してエリアを拡大しようとするアメリカ人に迫害されながら追いやられていった。映画『ラストサムライ』でも冒頭で同じような事実に葛藤するトムクルーズ演じる男の姿を見ることができる。

 

MEMO

当時、「文明程度の劣った植民地に近代文明を伝えることが先進諸国の責務である」といった思想の元に現地住民への一方的な支配や文化の押しつけ、現地資源の開発などが正当化された。この思想はイギリスでは「白人の責務」、フランスでは「文明化の使命」、アメリカでは「マニフェスト・デスティニー」(明白な天命)などと呼ばれていた。

 

だが、その『明白な天命』という考え方は真理と照らし合わせて考えた時、どう映るだろうか。黒人も、先住民も、白人たちの支配下につくべきで、人間には元々優劣があるという差別的な発想をする人間は、傍から見てどう見えるだろうか。

 

『これがこの映画の序章として押さえるべきポイント』だ。まず、冒頭の段階でアンソニーホプキンズというこの物語に登場する息子たちの父親を務める人間の思想が、そういう排他的で公明正大な観点から逸れ、エゴに支配されたおぞましい人間の現実に嫌気がさすような、そういう芯を持ったものだということが重要なポイントだ。この要素があるからこそ、彼の下で育つ子供たちはその思想を受け継ぎ、大自然と友人であるインディアンと共に平等に、あるがままに生きようと模索するような人間になっていく。

 

後は物語を直接見たい。彼らが一体どのような人生を生き、そしてどう死んでいくのか。この映画は人間が積み重ねてきた歴史のように奥が深く、大自然のように壮大で、別れ際には長年奇跡的に行動を共にすることができた獰猛な熊の友人と別れるような、そういう感慨を覚えることになるだろう。