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『Love, サイモン 17歳の告白』 レビュー(感想)と考察

『Love, サイモン 17歳の告白』

 

 

社会的包摂(ほうせつ)とは、社会的排除の対義語で、後者がマイノリティ(少数派)を排除しようという動きなら、前者はその反対の行動である。この場合、LGBTの立場である少年が、社会に対し、社会的包摂を訴える、というわけではないが、映画全体のメッセージとして批評家からはそう感じ取れるわけで、そこを高く評価されているという。

 

17歳という年齢を考えれば、そのような少年が社会的包摂を社会に伝えるだけの立場にいないことはわかる。そうではなく、ただもがき、苦しむわけだ。カミングアウトしていいのかどうか。それを貫いていいのかどうか。そして話は、『LGBT以外の人だってカミングアウトするべきでは?』という展開へと発展。差別撤廃と多様性を重視することを意識したアメリカならではの発想だ。まだ日本はこの考え方にたどり着いていない。

 

非常に厳しい問題である。この悩みに本気で苦しんでいる人がいるならそれはもちろんないがしろにはできない。だが、大きな問題として『男女が向かい合うことで子供が生まれる』という決定的な事実がある。『精子提供』や『孤児養子縁組』などで考えても、それはあくまでもノーマルと言われる人がいるから成り立つことであり、だとしたらカミングアウトしなければならないのはノーマル以外の人ということになる。

 

黒人差別問題は明らかに人種差別だが、LGBT問題はそれとは全く違う話である。また、女性同士がキスをしても気にならないが、男性同士がそれをするのを見るのは抵抗があるという人類共通の男女の差異における決定的な事実も考える必要がある。そして、LGBTのクリエイティビティが高いことも注目したい。彼らのそのポテンシャルが高いのはLGBTだからなのか。それとも、『強いられた人生を送っているから』なのか。だとしたら彼らが強いられることがなくなれば、そのポテンシャルを発揮することはできない。

 

エイズになる理由はなぜなのか。王道を行くとなぜそうはならず、子供が生まれるのか。これは安易に考えて答えに辿り着くような話ではない。