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『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』 レビュー(感想)と考察

『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』

ポスター画像出典:『Amazon.co.jp

 

日本の若者が出演していそうな展開だ。つまり10代のころ、お先真っ暗で不透明なあの頃、同じように刹那的な生き方をする人間や展開に興味を持った。『その後』やそこにある哲学などには興味はなく、ただ刹那的であればいい。それは自分たちの人生をリンクするからだ。ド派手に鳴り響くクラブミュージックや、流行のお笑いに言葉遣い。それらはすべて『その後』を無視してただ『今』を盛り上げるためにある。

 

一方大人はその逆で、建設的な人生に価値を見出す。それが自分ないし自分にまつわる家族等の人間関係の幸福に直結しているからということを知っているからであり、刹那的な人生は無知であることを既に悟っている。両者の違いは先行きのビジョンにある。伴侶も子供もいる人は、そのビジョンに成長した子供たちの姿などを観る。だがもう一方は、将来設計もそれを設計する意義も見いだせず、結果刹那的な人生になる。

 

彼らが生きている状況は確かに稀である。だが、『Hana-bi』と違ってそこに哀愁を覚えないのはなぜだろうか。それはただ彼らがド派手な花火を『急に』打ち上げるからだ。前者でたけしが演じる男は、そこにたどり着くまでに長い年月を経ている。中には『テルマルイーズの男版』という人もいるが、私はHana-biもテルマも両方とも大好きな映画だが、この映画にはそこまで興味をそそられない。

 

その理由は言った通りの『哀愁』だろう。ここでいう哀愁とは、その人物らが去った後、あるいは彼らと別れる時に感じる感慨であり、それを本当に感じるためには、ただ目の前で無鉄砲かつがむしゃらに暴れられただけでは難しい。やはり人間的な葛藤があり、本当は違う別の道も選択肢にあり、しかしやむを得ずそうするしかなく、だとしたら悔いなく散ろう、という万人を納得させるだけの流れがなければならない。

 

だから中には登場するマフィアのボスが格好いいと言う人もいるが、あのようなキャラクターも日本の若者向け漫画によく出てくる。リアルでなければならない。その2作では、たけしやテルマらを逃れられない決定的な現実が追い詰めていく。

 

例えば暴力団やマフィアの人生だって太く短いはずだ。だから彼らのような人生を正当化するとなると、『死に際に暴れるすべての人』を美化しなくてはならなくなる。ある時、海外の学校で銃の乱射事件が起き、犯人は自殺。置き手紙には、

派手に終わらせてやるよ

 

とあったという。これを聞いたとき、皆はどう思うだろうか。派手に終わらせればいいというわけではないのだ。だから私は、日本の若者が出演していそうな展開だと言った。往々にして日本の若者が出演する映画は世界規格ではない。そういう映画が世界でウケているのを見たことがあるだろうか。つまり私が言いたいのは、日本でも中国でも台湾でも、この映画のドイツでも、この手の映画はある一定の層に響く作品となるだろう。

 

だが、それを全世界に舞台を広げて展開した時に普遍的であるかどうかは、その作品の根幹にある深遠な哲学や普遍的な人間らしさがものを言う。哀愁、つまりその人物らが去った後、あるいは彼らと別れる時に惜しさを感じるためには、それだけ感情移入ができ、わずかな時間でも彼らと一心同体となっていなければならない。

 

大人になった今、『終わらせること』はその銃乱射事件の犯人同様我々だっていつだってできる中、しかしそうはしない。ここに人間たるゆえんがあり、挙げた2作にはそうした人間的な葛藤が垣間見えるのだ。10代のあの頃、私は彼らのように無責任で排他的な人生を送っていて、お先真っ暗だった。あの頃に見たなら、きっと自分たちの人生を応援して美化してくれる、芸術作品だっただろう。

 

だから私も10代のころ、意味もなく海にドライブをしに行ったものである。行って海を見て、すぐに帰ってくるだけだ。あの頃、ドライブをして自分が好きな音楽を車でかけて仲間といるだけで楽しかった。だから彼らの気持ちはわかる。そして、どちらにせよついついこうして文章が長くなってしまうほど考えさせられる映画だったようだ。