『プレイス・イン・ザ・ハート』
ポスター画像出典:『Yahoo!映画』
1935年の大恐慌時代のテキサス州。この時代はまだ黒人差別の真っただ中だ。リンカーンがその70年前に奴隷解放宣言をし、黒人が奴隷として扱われることは当然ではないことを大きく打ち出したが、1960年代にキング牧師、マルコムX、メドガーエヴァースらが白人至上主義によって暗殺されたことを考えても、また、それから更に60年という時間が経った現代においても白人警官が黒人を射殺する事件があることを考えても、この国の人種差別問題というのは根深い。
では女性はどうか。女性もまだ駄目だ。それは全世界的にみてもそうだ。それが『差別』という感覚すらない。性質的にそれが女性に合っているという理由も手伝っている。男性は狩猟採集時代から狩りに出るのが役目で、女性は家で子守りや料理洗濯という家事をし、お互いが身分相応の役割を果たして支え合って家族が成り立つ。この図式は一理あるから、女性は男性に重たい物を持たせ、開けられない瓶の蓋を開けさせるわけである。
だが、それぞれが適材適所につくのはいいが、この理論の元に生きているのが人間である以上、その状況を乱用したり、はき違えてそれぞれを結果的に侮辱することがある。例えば
『女は黙って飯を作ってりゃいんだ!仕事ができねえんだから!俺が食わせてんだよ!』
という発言がそうだ。こうした条件を断片的にピックアップし、まるで女性が無能かのように暴言を吐く。これが『差別』というものである。その反対もしかりである。では、大恐慌という人々が強盗すら正当化しかねない世界的不況にあって、女性が、夫に先立たれ、周囲に面倒を見るべき人間が複数いる場合、どのようにして生きていけばいいか。働くことや仕切ることに慣れてない女性が、私利私欲を持った人間の荒波の中で飲まれずに生きていくとなると、性別を超えた『本来人間に最も必要な要素』にいよいよ目を向けなければならない。
プレイス・イン・ザ・ハート。それを和訳するとどういう意味だと思うだろうか。それがこの映画の重要なポイントである。