『聖なる嘘つき/その名はジェイコブ』
ポスター画像出典:『映画.com』
時は第二次世界大戦中のポーランド。ナチスの占領下であり、ユダヤ人居住区「ゲットー」に住んでいる元パン職人のジェイコブが戦場に生きる人々にかすかな希望の光を照らす。だが、その照らした光は過大評価される。長い間闇だった場所に光が照らされれば誰もが『神の救いが来た』と思うだろう。その闇の深さが深いほどそうなる。だが同時に、光が人間に生きる希望を見出すことも事実だ。いくつかの例を見てみよう。
『ストックデールの逆説』とは、壮絶な拷問生活を耐え抜いたアメリカの将軍、ストックデールが、その地獄のような経験をしている最中、抱いていた『希望』と『絶望』の両面のことを言う。ストックデールは、最悪の拷問生活の中、『最後には絶対に釈放されて、平穏な暮らしを取り戻している自分』と、『今よりももっと劣悪な状況に陥った自分』の、両面を想像していた。この時なぜ彼が『希望だけ』を想像しなかったかというと、檻の中にいる仲間たちが、
きっとクリスマスには出られる
きっと次の復活祭や年末年始には釈放される
といった根拠のない期待を抱き、見事にその期待を裏切られつづけて衰弱死したことから、『最初からそういう根拠のない淡い期待を持つのではなく、そうあることもあるだろうし、そうなることもあるだろう』という決定的な現実にだけ目を向ければ、期待は永遠に裏切られないわけだ。『いつかは出られる』のだから、その可能性だけを強く意識することにより、中で自決したり、衰弱死するリスクから逃れることができるのである。
また、ナチスの強制収容所に収監され、人間の想像を絶する3年間を過ごしたドイツの心理学者、ヴィクトール・E・フランクルのの著書、『夜と霧』にはこうある。
収容所の芸術
ともあれ、時には演芸会のようなものが開かれることがあった。居住棟が一棟、とりあえず片付けられて、気のベンチが運び込まれ、あるいはこしらえられて、演目が案配される。夕方には、収容所でいい待遇を受けている連中、たとえばカポーや、所外労働のために外に出ていかなくてもいい所内労働者が集まってくる。いっとき笑い、あるいは泣いて、いっとき何かを忘れる為に。
(中略)実際、こうしたことは有用なのだ。きわめて有用なので、特別待遇とは縁のないふつうの被収容者のなかにも、日中の疲れもいとわずに収容者演芸会にやってくる者がいた。それと引き換えに、その日のスープにありつけなくなってさえ。
『根拠のない淡い期待を持つ』ことは危険である。だがそれも含めた希望とは、人間に生きる喜びと生き抜く力を与える。このような話を知っていれば、ジェイコブがやった行動、そしてこの話が何回層も深くなることを知るだろう。