『暗殺者』
ポスター画像出典:『ヤフー映画』
ジュリアン・ムーアが生き生きとしている。彼女の最盛期は1993年のデビューから3年目の『妹の恋人』のように見える。その2年後がこれだ。まだ生き生きとしている。『ピカソ』や『ブギーナイツ』あたりからは少し陰りはじめ、『マグノリア』(1999)ではもうすでに現在の彼女の見た目に近づいている。
彼女の見た目の話である。残念ながら、彼女の見た目はオードリー・ヘプバーンらのそれと違って、世界規格ではない。残酷な話だが、どうしても顎が気になってしまい、集中できない。ふざけた話である。
ただの見た目でそうなってしまうのはどういうことなのか。こっちとしてもそういう穿った目で見るべきではないと思っているのだが、なぜなのだろうか。『妹の恋人』の時は、素直に美人だと思えたのに。きっと彼女が終始、『美人役を演じているつもり』だからかもしれない。要は、美人だと思っていなければ、もっと砕けた演技になって、カジュアルさが出て見た目も気にならないのだが、この容姿で、成りきっているのがヘプバーンであれば、こちらには違和感が残る。
悪口を言うつもりなどないのだが、彼女からはいつもそういう気配を感じてしまうのが正直なところだ。だが、役者としての実力は見事で、世界三大映画祭(カンヌ、ヴェルリン、ヴェネツィア)のすべての女優賞を受賞した女優として名をはせている。王道美女の役を演じられるのは一握りしかいない。女性なら皆がその役を演じたいと願うのが本音だが、いち早く自分の役割に気づいた人が、大成するのかもしれない。
別に、美女以上に儲ける人や、名を売る人、心が優しい人は大勢いるからだ。また、メグライアンやニコールキッドマンほどの美女が、後年になって手を出してしまった整形は、醜い。
名探偵コナンの灰原哀はルパンと共演した時、峰不二子にこう言った。
『女が若さにとらわれたら、終わりなんじゃない?峰不二子さん。』
不二子は、薬で若々しい姿になるのだと言って、『若さと美』への執着を見せたのだ。その姿に美を感じなかった灰原哀の一言であった。美しい容姿というだけで大役を任され、大金持ちになってアメリカンドリームを掴む。そういう現実が存在するのだろう。だが、彼女のような女優は例えば『ブリジット・ジョーンズの日記』のレネーゼルウィガーのように、自分にしかできない役割に徹すれば、もっと大化けするかもしれない。
例えば、モーガンフリーマンはどうだ。彼も主演で、まるでデンゼルワシントンかのようにワイルドな役を演じることもあった。だが、彼に合っているのは『重要なカギを握る粋な賢人』だ。二兎を追う者は一兎をも得ず。この映画の内容には関係ないが、彼女の容姿とキャリアを無責任な第三者目線から見て、そう考えるのであった。