『マイ・エンジェル』
ポスター画像出典:『ヤフー映画』
マリオン・コティヤールはかなりニッチな映画にも多く出ていて、一見するとB級に見えてしまうような映画でもアカデミー賞にノミネートされたりしていて、目が離せない。『サンドラの週末』がそうだ。確かに、ヴァンパイアのように全く共感できないニッチよりも、彼女のような役の方がよっぽど日常に迫っているわけで、共感できる。
また同時に、そのようなニッチもこなせるということは役者の実力として評価が高い。ヴァンパイアとかなんたらのヴィランとかいう役は、往々にして『フッハッハッハ!』とか、のけぞっていれば成り立ってしまうものだ。容姿がすでに普通じゃないから、それで『普通の人間と同じ立ち回り』をされても混乱するので、オーバーアクションになりがちである。すると、誰もがそうして演じるのでコモディティ化が起き、価値がすり減ってB級に転落しがちなのである。
『マレフィセント』でアンジーが成功したのは、シナリオ的にも彼女というヴィランの繊細さを映し、それが斬新だったということもあるだろう。『魔女がいっぱい』のアンハサウェイはその辺りをうまくやったが、そういう方向で無意味に役者の価値を落とす人が多いので注意が必要だ。だが彼女の場合、『サンドラの週末』も今回もそうだが、両方とも『見回すと見つかりそうな人』を演じているから、我々一般人が密接に作品の内容に寄り添うことができる。
『愛を綴る女』、『君と歩く世界』、『エディットピアフ』も含めて、かなり複雑で、精神的に込み入った役を演じることが多いが、それを見事に演じているのが伝わる。『インセプション』や『マリアンヌ』などもそうだ。つまり彼女の場合、『演じるのが難しい実力が問われる役』を引き受けている印象が多く、それを見事にこなしていて、実力で世界を認めさせている印象があるのだ。
ノオミラパスもその系統だが、彼女たちのような人は、脇役にいるべきではない。脇役にいるのも見たことがあるのだが、全く生かされていない。だから今後はすべての映画で重要な役を演じるべきだ。
今回の映画もwikipediaにも説明ページがないような作品だが、『こういう人はいる』ので教訓性があるし、それをうまく演じていて、他の作品の彼女を少しも持ち込んでいないから、感心するのである。こういう人がいる、ということを知っている人は教訓を得られる。また、こういう人はいない、と勘違いをしている人は『いるので』ここで知れて教訓になる。