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『レナードの朝』 レビュー(感想)と考察

レナードの朝

ポスター画像出典:『ヤフー映画

 

パーキンソン病とは、手の震え・動作や歩行の困難など、運動障害を示す、進行性の神経変性疾患である。進行すると自力歩行も困難となり、車椅子や寝たきりになる場合がある。発症したら中々治らない。この世にはそういう不治の病を抱えて人生を生きている人は大勢いるのである。ただ、この世界の『常識』はそういう人々を『異質』と捉える。それには理由もある。例えば彼ら患者が『ルールを守れない』場合どうする。信号無視をしようものなら即死か、あるいはそれを避けたり、巻き添えとして命を落とす人が出てくる可能性もある。認知・自制能力が低下している人間と『ルールで固められた人間世界』で共生するのは、困難を極めるのも事実だ。

 

だからそういう人を隔離し、あるいは異質として分別する。それによってお互いが最低限の損害で押さえられる。倫理的な問題でジレンマのようではあるが、核兵器や強力な軍事力を持つからこそ抑止力となる事実もあるように、その矛盾したジレンマを抱えて生きるのがこの混沌とした世界を生きる際に欠かせないドーピングとなっているようだ。

 

それが『ドーピング』だというのは、根本解決をすれば今言った分別やジレンマは必要なくなるからである。国家も、言語も、宗教の違いも何もかもがなくなって、人が『真理』という一つの崇高な威厳に則って生きるようになれば、格差も差別もない。だが、その実態は目に見えず、理解が容易ではない。したがって、それぞれが思う『真理(神)』やルールに従って生きるしかなく、その形の違いがゆえに人々は分別され、最悪の場合は戦争をしてしまう。

 

ただ、映画『ヴィレッジ』を観れば『本当に分別は必要ないのか』という疑問が頭をよぎることになる。この映画では、老子の理想とした『小国寡民(しょうこくかみん)』、つまり少人数で生きることによって争いやトラブルを最小限に抑えられると考えた人々が集まって生きている。しかし、その集団に『病気の子供』が生まれてしまい、彼が精神未熟な故に、『嫉妬』から引き起こした命に係わる過ちを犯してしまうのだ。

 

まさに、今回の話の通りだ。結局は『異質』と判断された人間は隔離され、分別されるべきなのか。そういうことを考えながらこの映画を観ていく。

 

だが、我々は思い知ることになる。そうして隔離された人たちの人権を。心の声を。彼らは生きている。恋もする。我々は、レナードという人物を中心として刹那の時間『蘇った』、彼らの尊い時間に直面し、自分たちの人生の愚かさ、儚さ、そして尊さを思い知る。これは、実話である。