ポスター画像出典:『映画.com』
人間が利益を追うのは当然である。なぜならこの世界にはお金が存在し、そのお金の有無で人が死んだり、命を救えたりする。つまり、利益には人生がかかっている。そしてその人生とは往々にして個人だけではなく、その人の周囲の親密な人たちがすべて含まれるのである。ルソーの著書『人間不平等起源論』の文中にはこうある。
「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略)奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」
ルソーは、『この社会制度自体に問題がある』と意見し、その『周囲の人々』を『足枷』と考えた。確かに、ローンや養育費、食費や教育費など、ありとあらゆる自分以外の存在の支払いの為に隷属状態が発生する場合、その考え方も一理あるものとなる。
別役実は言った。
社会制度がなくても、お金がなくても、命のエネルギーの単位で考えると更に我々は自分本位である。だから人間が利益を追うのは当然である。それは、すべての人間、いや生物の本能に植えついている、生きるエネルギーなのである。
だが、それを人間の世界で忠実に追い続けると、どうも違和感を覚える人生となってしまう。妙だ。その他の生命にはない。皆、自分の利益を追って一生を生きるはずだ。それなのに、なぜか『道が逸れた』ような気がするのだ。それは一体なぜだろうか。
では、彼のケースで見てみよう。彼がその野心的な人生の途中で見つけた『見落としてはならない決定的な事実』とは一体なにか。