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『TENET テネット』 レビュー(感想)と考察

TENET テネット

ポスター画像出典:『公式サイト

 

ニーチェは言った。『超人』になれと。彼の言う『超人』とは、

永劫回帰を前向きに受け入れ、既存の価値に囚われずに新しい価値を生み出す人間』

 

のことである。『永劫回帰』というのは、

「時間は無限であり、物質は有限である」という前提に立ち、無限の時間の中で有限の物質を組み合わせたものが世界であるならば、現在の世界が過去に存在し、あるいは将来も再度全く同じ組み合わせから構成される可能性について示唆している。

 

ということ。つまり、

ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒ビッグバン(破壊&宇宙創造)⇒宇宙が誕生⇒人間が誕生⇒

 

というループを無限に繰り返すということ。

 

私も考えたことがある。なぜなら、人間のこの技術の進歩は、ある種感動的である。このたった20年で考えただけでも、けた違いの進歩を見せている。例えば、Windows95で感動していた死んだ父親は、この現代の技術力のすごさを知らないのだ。しかしおかしい。どう考えてもこの先に行けば行くほど、過去の人間が大きく上を見上げるべく圧倒的な技術がそこにある。だが、例えばその道の中で、タイムマシンが発明されるのであれば、その未来の人間が過去である今我々が生きている現在にやってこないことがおかしい。

タイムパトロールのような人間が過去の人間との接触を阻止しているとしても、人間である以上、何らかのミスがあるはず。そして何らかのミスがあるのであれば、それが現在に何かの『現象』として起こるが、いわゆる『心霊現象』などをそう考えたとしても、私は別にそういう現象を見たことがない。テレビ番組で観るだけだ(つまり、演出がされている)。そう考えると、明らかにこの先に待っているのは『SFで空想される発展した世界』というよりは、『虚無』と考える方が合理的である。ということは、

『人間が研鑚した技術はこの先に行けばもっともっと優れていく一方になる』

 

という考え方ではなく、

『おそらくどこかで一度虚無になり、リセットされる(例えば、他の銀河と衝突したり、宇宙が膨張⇒収縮というアコーディオン的な動きをして、また最初の爆発(ビッグバン)に戻る)。だから過去である現在に何も影響がない』

 

という考え方の方が、納得がいくのである。そう考えたとき、

 

(実は今の我々は、そういう無限ループを繰り返しているのではないか?)

 

という風に考えたのだ。つまり、人間の進歩は、タイムマシンを発明するほどの能力に達する前に、尽きてしまう。これがニーチェの言うこの『永劫回帰』の意味とほぼ同じ発想だろう。永劫回帰はキリスト教的な来世や東洋的な前世の否定であり、哲学史的な意味合いにおいては、弁証法の否定と解釈できる。

 

ニーチェの生まれる10年前に他界した、近代哲学の完成者、ゲオルク・ヘーゲルの言う『弁証法』とは、

『ある一つの主張(テーゼ)があれば、必ず反対意見(アンチテーゼ)が存在する。これを否定せず、お互いの良いところを取り入れて、統一(アウフヘーベン)し、新たな考えを創り出せば、一つ高い次元の知識が完成する。これを繰り返していけば、人間がいつか絶対的な真理である『絶対知』を手に入れることができる。この『絶対知』を手にするまでの一連の手法が弁証法だ。弁証法は人間の思考や進化だけではなく、自然や社会など世の中すべての進化の原理原則だ。』

 

ということ。だがこれはニーチェの言う『永劫回帰』が事実なのだとしたら、人間はこの『絶対知』を手に入れる前に、あるいは手に入れたとしても、またリセットされてしまうからである。

 

さて、ヘーゲルは『未来に行けば行くほど人間は完成に近づく』と言い、ニーチェは『いや、人間は完成する前にリセットされてそれを永久に繰り返す』と言ったわけだ。蓋然性が高そうなのはニーチェの方である。そうじゃなければ、我々が生きる時代や今までの時代を生きた人間が感じなかった違和感の説明のしようがない。ここまでがこの映画の話を押さえておくべき基礎だ。

 

では、人間は本当に『時間』を操る日が来るのだろうか。この映画は『メメント』のような世界観と同じだ。あの映画は『インセプション』よりもより『難解』である。いや、『難解にしている』のだ。インセプションは映画の最中に説明があった。だから我々は彼らがやっていることの仕組みがよく理解できたが、メメントではそれがない。あえてそれをしない『謎解き』のような世界観を演出しているのである。

 

今回はメメント寄りだ。あえて難解にしている。もっと簡単に説明しようと思えばできるが、あえてしないアプローチで新世界を切り開いているのである。プルトニウムという計り知れないエネルギーを持った物質を使った話は『BTTF』などたくさん存在するので、そのいずれとも違う形にしなければ『新境地』とはならない。また、回転ドアが他作品へのオマージュなど、そうしたいくつもの細かい要素が散りばめられている為、必然的に緻密で複雑な構成になる。

 

一度紐解けば『なるほど』となるのだが、一度わかってしまったら飽きてしまうのが人間だ。自分の作ったクリエイティブを少しでも長く楽しんでもらいたいと願うのは、全クリエーターの本音である。どんなに時間をかけても、どんなにお金をかけても、どんなに手間暇かけてもいずれは飽きられ、また次の新作に期待される。あえて『滞在時間』を長くするように仕掛けることで、そういうクリエーターの哀しい宿命に少しでも抗いたい。そういう健気さを感じたのは私だけだろうか。

 

芸術家は自分の為に創造し、エンターテイナーは人の為に創造するというが、メメントでは彼の芸術性が主張され、インセプションではエンターテイナーとしての彼が主張され、そして『インターステラー』で彼のその両面の説得力が強化され、『ダンケルク』や『ダークナイト』、『マンオブスティール』などの作品を通して壮大さに磨きをかけ、今回の作品で彼の今まで築き上げてきたことが一つの集大成となって現れたように見える。

 

次々と人々の期待に応えて新世界を見せてくれるノーランのことを考えていると、ふと宮崎駿のことを思い出した。彼は芸術家である。自身でも

『私は浮世離れしていていい。時代に合わせるつもりなんてないんですよ。』

 

と発言していて、新しい作品を打ち出しても彼は『人々が彼に求めるニーズ』を重要視せず、『自分がこの一生でクリエーターとして何を残すべきか』という『使命』に目を向けている。だから『風立ちぬ』のような『自分の好きな要素で固めたもの』を打ち出したり、次の作品でも『君たちはどう生きるか』という人類に対する啓蒙(教育的メッセージ)を主な目的とした可能性の高いものを打ち出そうとしている。

 

その話が出た時の彼の『ファン』のコメントはこうだ。

『俺はもう彼にラピュタやナウシカのような、自分が好きだったファンタジーの世界で楽しませてもらうことを諦めた』

 

宮崎駿は『天才だと思いますか?』と質問されたとき、『馬鹿』と笑ってこう言った。

『鈴木さんと二人だからやってこれたんだ。』

 

いくら多くの人間の欲望を煽って大金を稼いだところで、天国に金は持っていけない。大勢の人間のニーズは必ずしも正しくはなく、むしろ弱く繊細な心を持った人間は間違った方向に逸れがちである。だからこの世には宗教や法律、道徳やルールがあり、人が道を逸れないように網を張っている。

 

化粧はするべきなのか。ネオン街はあるべきなのか。整形はしていいのか。アインシュタインは言った。

 

アインシュタインは、核連鎖反応も、マッチの発明も、別に『人類の滅亡』を目的として発明されたわけではないので、その発見自体に罪はないという発言をした。この核連鎖反応を見つけたのは、人間の『探求心』と『好奇心』だ。アインシュタインの言うように、確かにそれを発見しただけでは人類は滅亡しない。しかし、それを扱う人間が恒久的に未熟である以上、探求心と好奇心は人類の滅亡を呼び起こす。『原爆の父』と言われたオッペンハイマーは、日本に原爆が使われてしまったことを悔いた。彼もそういう結果になるとは思わなかったのである。

 

アインシュタインは自分の生み出したエネルギーの公式で原子爆弾が作られたため、日本に来日したとき、泣いて謝ったという。また、ノーベルも自分の作ったダイナマイトが殺人に使われ、『生まれてすぐに殺された方がマシだった』と言ったという。更にライト兄弟の弟オーヴィルも、第二次世界大戦で飛行機が戦争に使われ、自分の人生を後悔したという。

 

私は彼ら天才たちが作りだした作品と、そのエンターテインメントに卑しくも欲求を満たされながらも、彼らの言葉や哲学、そして『真理に教育された人間の歴史』に触れ、人間の無限の浅ましさと、その対極にある真理の威厳さを思い知った。

 

 

 

また、これはネタバレキーワードにつき、参考までに。見た直後にまとめたデータである。一度しか観ていないので、時間が経てばたつほど古い情報となる。一つだけ言えるのは、当時ほとんどの人、いや全員と言っていいほど『謎解き』に夢中になり、誰一人この映画の根幹にあるものが『環境保全』であると断言している人を見なかった。